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祭祀と宗教 -自立再生論-

昨年7月に埼玉にて行われました、國體護持塾みすまる(勉強会) にて、南出喜久治先生がされたお話を部分的に文章化したものを掲載して参ります。質疑応答より祭祀と宗教について

あの小泉八雲、ラフカディオ・ハーンの作品の中で「お大の場合」っていう話があります。けいそうお大というそういう話なんですけど、簡単に言うと松江での実際にあった話なのですけれども、あるお大という娘がおりまして、身寄りのないというか、親とか兄弟みんな失ってそして家の中には仏壇があって、それには厨子、厨子というのは、担いだりして持ってくる、小さな仏壇と考えてください。
その厨子の中に親の位牌とかご先祖様の位牌、早く死んだ弟の位牌があったんですが、松江にキリスト教の宣教師が来て、そして、そのまあキリスト教に改心しなさいと勧められて、そして、キリスト教になるためには、その位牌とかそういう系図の巻物を全部ほかしなさいということを言われて、そしてまあ、悩んだあげくあのそれをほかしてしまった。ところが村人たちは別にキリスト教になったこと自体については何も変わった娘やなという程度で何も言わなかったんだけど、その厨子に納めてあった位牌から巻物からを全部川に投げ捨ててお大自身も涙を流して別れを告げたんだけど、そのことがあってから村人はごろっと変わったと、どうしてかって言うとまったく黙殺をしてしまったのです。つまり、まあ、村八分どころか村十分というか、完全にそのお大を排斥してしまった。
つまり、キリスト教に改宗したということを非難したんじゃなくて、その位牌とかご先祖を全部捨ててしまったということに、村人は愕然として、付き合うこと、声をかけることも止めてしまった。そして挙句の果てに、宣教師もそこを去って、お大も捨てられてしまった。そして、本来ならば自決したのかもしれないんだけれども、お大としてはそのまま生きながらえようとして身を落としていった。で、ようするに体を売るということにした。ところがそこの松江のそういう業者がその祖先の位牌をほかす、こちらもいわば人の道に外れた仕事はしているけども、それほどひどい人間がいるとなるとお客さんが来なくなる、だからもうここでは無理だから大阪に行けと言って大阪まで行って、身を落としてしまったという話なんです。

これが、まさに僕がその祭祀と宗教と言ったらね、この祭祀と宗教を端的に物語っている話かなと、つまり日本のその心というのが、まさにそこに表れていて、これは実話なんです、実は。だからそういうことからするとその日本人の心の中に別にどんな宗教でもええと、どんな宗教でもいいけども、ご先祖様をないがしろにして、それも位牌も系図の巻物から何から何までみんなほかしてしまうは、それを女宣教師に二人から言われたからいうてね、それを真に受けてほかしてしまって、そこは給料をもらったいきさつがあるから、そういうことにしたんだけど、村人もそれをののしらんとね、あぜんとしてしまって、一切話しかけもしなかった。これほど恐ろしい環境に、ご先祖様をないがしろにしたら、その当時はそうなったんだよね。
ところが今はそうじゃないよね、多分。それほど、先ほどの話じゃないけど、本能が劣化してきている今はね。日本人の本能としてのものが劣化してる。

僕は決して少子化は怖くないと思ってるん。これは経済の話はまた機会があったら、GDPの話とかいっぱいさしてもらいます。これは自立再生論において、基軸になる議論なんですけど、僕は、少子化は怖くないと思っているの。一番怖いのは劣子化、つまり本能が劣化していく子供がたくさんおっても仕方ないし、劣化した子供しかいない、ましてや子供が少なくなる。それが怖いんであって、しっかりとしたね、本能的に強化された本能強化教育がきちっと身につけられた子供がおって、その子供が少なくてもそれは国家は存続できるけども、結局、本能強化教育、つまり、理性合理主義っていうものについて全否定をするということに実は僕共通しているんですよ。でそういうことからすると、教育論においてはやっぱり本能を強化する教育、これに徹しないと民族は滅びるよね。
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