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日本の自立再生論 家族について

昨年7月に埼玉にて行われました、國體護持塾みすまる(勉強会) にて、南出喜久治先生がされたお話を部分的に文章化したものを掲載して参ります。本日は家族について

第三章 家族について

われわれは一体そのどういう形で生きていくのか?

今、僕が占領憲法と言ってもみんな分からないかもしれない。「日本国憲法」と言われるこの独立を奪われた、非独立時、占領下で生まれた日本国憲法のことを占領憲法と言っているのです。余談ですけれど、僕は昭和25年の生まれなのです。よく「戦前生まれですね」とか「戦後生まれですね」と言うけれど、僕は戦後生まれになるのですよ。朝鮮戦争では戦前生まれなのですけれどね。
日本の戦前とか戦後とかの言い方をすると、僕は「戦後生まれですね」と言われたときに「いえ、僕は戦後生まれでなくて、占領期の生まれです」という言い方をするわけね。「占領期の生まれ」つまり、唯一有史以来、ポツダム宣言を受諾して日本が独立を失った、そして、サンフランシスコ講和条約によって、昭和27年に4月29日にね、独立を回復したまでの間の占領期というものがあって、その占領期の生まれですという言い方をするわけです。
その占領憲法で何を詠っているかというと、個人主義を謳っているわけね。

家族というのは、占領憲法の中には出てきません。個人主義というのは、一人一人がばらばらなわけです。だから個人主義を追求していくと、何が生まれるか?
どうして親が子供を養わないかんのか?どこかでてきますか?
合理主義とか個人主義、親が子供を養うということに何か合理的な問題がありますか?
理由がありますか?
自分が生んだ、生ました子やから、そんな理由になるのですか。血縁関係があるとかないかによって、関係なしにみんな平等じゃないですか。隣の子であろうが自分の子であろうが、平等なのだから隣の子に扶養義務がないのだから、自分の子だって扶養義務を何で課するねん。
血のつながりちゅうのはそんな合理的な意味があるのかと、いうことになってしまう、親を扶養する、親孝行するどこにそういうことが書いてあるの。個人主義にどんどんどんどんシフトしていくと、徳目や道徳とか全部崩壊していく、個人主義というのは全て今までなされてきたものを全て崩壊させるために、あみだされたもので、まさに、合理主義から出てきたのが、個人主義なわけですよ。
個人はそれほど、すばらしいというか、個人として尊重されるということは、それほどの意味を持っているか。みなさん、生まれて、一人前になるまでに、親にいろいろ面倒を見てもらって、合理主義で言ったら、無償で面倒を見てもらっている。無償の愛をそそいでもらって、恩義をきているのやけれど、それは別にお金を借りた訳ではないし、扶養料を払う訳でもないし、「はい、ごっそうさん」言うて終わる訳でしょ。
それでその間は、自分で自活もできないし、なにもできない。身の回りのことも何もできない。
ようやく一人前になってからでも、人によって、怪我や何かの障害を抱えたりして、一人前になれない人もいるし、一人前になっても、途中で介護を要するようなことにもなるかもしれない、順調にいっても、年をとってきたら、いつ何時そうして家族の介護を要するかどうか分からない。そうすると、一人前に自立する期間というのは、個人差はあるかもしれないけれど、長くても数十年の期間ね。

人の一生でも、ごくわずかの期間でしか自立できていない、そのわずかな期間の価値をどうして絶対視するのかと。そういう普遍性のないものに対して、個人が尊重されるような自立できている期間が極めて、短いのに、それを絶対視したような思想が生まれるのかと。

つまり本当の意味で個人主義ちゅうのはね、障害を抱えている人たちを非常にさげすんだ差別助長の考え方が個人主義だという究極の定義ができると思う。例えば、障害を抱えている人に個人主義を言ったら、成り立たないじゃないですか。障害を抱えていたって個人主義なんだから、何で人から介護を求めないかんのかと、障害を抱えている人間が個人主義なんだから、別に平等主義と個人主義は違うんだからね。自分でやれば、自己責任ですればいいじゃない。
周りの人が支える必要がどうして合理的に出て来るかということになってくる。そういうことから言うと、究極の差別主義やね。個人主義は、個人というのに基軸をおいてしまうと、家族がばらばらになる。

逆に、家族というものを基軸におくと、今度は家族に普遍性が出て来るのよ。おじいちゃん、おばあちゃんが元気なうちはね、その自分らのお父さん、お母さんを養っていた。お父さんが今度おじいちゃん、おばあちゃんになって、年をとってくると、お父さんお母さんが家の柱となって自分たちを支えてくれる、今度お父さんお母さんも年をとってくると、今度は自分たちがそれをやっていく。

だから、家の主力となる人は代わるかもしれないけれど、家族はずっと連綿と繋がっていく、個人主義的な考え方よりも家族主義的な方が、普遍性が生まれるはずなの。ところが、今の占領憲法にはじまる全ての法律制度が全部個人主義で、家族主義ではない訳。例えば、老人福祉を一つとってみてもね、老人福祉ちゅうのは、みんな親孝行すれば老人福祉って基本的に解決するのですよ。
例えば大家族としてみんな同居していくという政府の方針、住宅事情においても、小さな核家族の住宅をするのではなくて、大所帯にすればするほど、政府が便宜を図る。例えば、税務上の便宜を図る、そういうふうな政策にいって、家族というものの復活、再生をしていくという方向にいけばね。これ、基本的には老人福祉問題は、全く身寄りの無い独居老人以外はね、解決するのですよ。それを全部親孝行も分業できると思っている訳。親孝行も行政的に分業するという体制自体が、個人主義な訳。
家族主義に回帰していったら、福祉問題は基本的に解消するねん。例外的な問題はもちろんフォローせないかんけれど。根本的な問題は、それでできるはずなの。
だから今、福祉問題で一生懸命やっている人というのは、ほとんど、個人主義者がやっている訳ね。日本を再生していくにおいては、家族構成を広げていくと、年寄りも子供もみんな一緒におるという、そういう社会が健全な社会なのでね、幼稚園で子供だけ集め、老人ホームで老人だけ集める。
こういう隔離政策をするとだめなので、例えば、幼稚園と老人ホームとを併設して合体させてしまうとかね。つまり、老人の知恵を子供に伝承させていく。そういうことがどうしても必要になってくる。

今、家族主義がどんどんどんどんと否定されて崩壊していくという、最中にやっぱりもう一度見直す必要があるだろうと、次の祭祀という話になってくるのだけれども、結局、それぞれの人の本能が親もおり子供もいる、それは当然家族主義になるこれは自然の流れ、その先にどうなるかというと当然祖先祭祀につながってくる。
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