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祭祀の道第5回 数え年と正月


うまれあふ よそひとたちと むつむよに ひとしほおやと こゝろかよはせ
(生まれ会ふ 他人達と 睦む世に 一入親と 心通はせ)

 第二回でも少し触れましたが、神々のお祭りや公式な儀式や祝宴などの正式かつ公式な祭礼をハレ(晴れ)というのに対し、日常的で私的な祭礼をケ(褻)と呼びます。このハレとケは、公(おおやけ)と私(わたくし)の区別、非日常性と日常性の区別であり、服装や食事、それに建物や部屋や場所など衣食住の生活のすべてに及んでいます。晴れ着、晴れ姿、晴れの舞台、晴れの席、晴れの歌、ケの衣、褻居(けいい)などの用語例があることからも、我が国の民俗文化と伝統に深く浸透していることが判ります。

 生活それ自体に、ハレとケの区別があるのではなく、生活の具体的な場面や行為とか状態においてハレとケの区別があるのです。ですから、祭祀は生活の一部であり、そもそも日常性が本質のものですから、本来的にはケとハレの区別はありません。生活とは祭祀生活のことであり、生活、即祭祀ですので、「ケハレなし」です。しかし、祭祀の種類によつてはその「祭礼」の重要性に軽重の差異があり、その具体的な「祭礼」についてハレとケの区別があるのです。

 特に重要なものとしては、○○祭とか、○○節と呼ばれるものがあります。「祭」の場合は、「神降ろし」の神事、祭事であることが多く、○○天皇祭というのは、天皇が崩御された御命日の祭事であり、御命日に神霊を降臨させて共食、共楽して厳かに賑やかに営まれます。

 また、「節」の場合は、五大節、つまり、歳旦祭(さいたんさい)及び四方拝(しほうはい)(元旦)、紀元節(二月十一日)、昭和節(四月二十九日)、明治節(十一月三日)、天長節(十二月二十三日)などのやうに、天皇や国家の誕生を祝う時節に用いられます。このうち、歳旦祭(さいたんさい)も誕生節(たんじようせつ)です。元旦は、太陰太陽暦(たいいんたいようれき)と数え年の風習によると、すべての人々の誕生節だからです。どうして元旦が誕生節なのかについて理解するには、まず、数え年の意味を知らなければなりません。

 数え年というのは、生まれた時に一歳となり、次の正月(元旦)が来れば二歳と計算し、その後も元旦が来る度に一歳づつ年を取るという年齢計算です。これは長い間、わが国の伝統的な年齢計算の方法でした。正月が来ると一つ歳を取るという認識が浸透していたのです。ところが、「年齢計算ニ関スル法律」(明治三十五年)と「年齢のとなえ方に関する法律」(昭和二十四年)の二つの法律によって、満年齢による年齢計算となり、数え年が廃止されてしまいました。これも伝統の破壊です。

 しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる「満年齢」という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎません。「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅れらせたり早めたりすることもできます。また、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできます。ですから、年齢を考えるにあたつて、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更に(ことさら)この年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでゐるのです。

 その点、伝統的な「数え年」は、もののはじめが一であるという数霊に適う(かな)ものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものです。受精から出生までの「とつきとをか」を出生時に一歳と認識して、その後の齡は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も論理性があることが認められます。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒(うるうびよう)があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確であると言わざるを得ません。

 ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになってしまいます。この「零歳」という言葉は、「うつろ」を意味するものとして、何とも奇妙な響きではありませんか。その「零歳」という響きには、いかがわしさすら感じられます。第三回でも触れましたが、一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前であることから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。マイナス五ヶ月とかマイナス一ヶ月といふ胎児が居るということです。そのため、胎児の命は軽んじられ、人工妊娠中絶という堕胎手術に歯止めがないに等しい昨今のおぞましい風潮が生まれる素地(そじ)がここにあるのではないでしょうか。

 敗戦直後に、ベビーブームが起こりました。それは空前の食糧難であったから起こったのです。食糧難によって個体の生命維持が危ぶまれると、死ぬ前に子孫を残そうとする種族保存本能が強く働いたことの結果によるものです。しかし、それによってさらに食糧難が加速し、反米意識の高揚と報復戦争への人員増強を生む結果になることを恐れたGHQは、産児制限の立法を目論みました。アメリカでは宗教的倫理感から堕胎を禁じていますので、そのような立法をGHQが指示して成立させたということが暴露されると、自国においても批判の矢面に立つことになるので、そうならないために、GHQの意向を受け、これに迎合した議員たちが集まつて議員立法の形式で「優生保護法」(昭和二十三年)を成立させました。これは、明らかに「胎児虐殺法」です。これが平成八年に「母体保護法」と法律名が改称されたものの、その本質は全く変わりません。それは、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」(第十四条第一項第一号)の場合は堕胎(人工妊娠中絶)を認めるとするのです。しかし、これが極度の食糧難の時代が終わって、現在のように、奢侈(しやし)で飽食の時代となり、食糧難の片鱗すら全くないときにおいても、これをさらに拡大解釈して、事実上無条件で中絶手術が敗戦直後のとき以上に頻繁に行われているのです。

 十年前の平成十一年の統計でも、年間の中絶数は33万3330件で、そのうち、99.9パーセントが「経済的理由」で中絶しています。つまり、お金のために胎児を殺すのです。この年の出産数は、120万3.147人でしたから、統計上でも全妊娠の21.7パーセントが中絶したことになります。

 妊娠の継続又は分娩が「身体的理由」により母体の健康を著しく害するおそれのあるものについては、人口妊娠中絶はやむをえないと思はれますが、「経済的理由」により「母体の健康を著しく害するおそれ」があるというのは一体どんな場合なのでしょうか。子供を産んだことで生活が困窮し、育児費用を捻出するために母親が飲まず喰わずとなって健康を著しく害するという差し迫った極端な危険がある場合があるとすれば、それは国家がその育児を支援すればよいのです。この法律の規定は、まさに個人主義によるもので、ここには、「家族」という観点はありません。胎児を生かすか殺すかという重大な問題について、母親のみの経済力だけで判断してはならないのです。父親その他家族の力を合わせても、それでも「母体の健康を著しく害するおそれ」があるか否かを判断しなければならないはずです。ところが、この「経済的理由」の事実認定は建前上は医師の認定によることになっていますが、実質的には何の証明も不要であり、妊婦が子供を育てる経済力がないと自己申告さえすれば安易にこれを受け入れて堕胎されてしまうのです。その方が医師としては儲かるし、そのように安易に堕ろしてくれる医師に不逞(ふてい)なる妊婦らの人気が集まるという胎児殺害システムが出来上がっているのです。これによって性風俗が乱れ、無責任に妊娠すると出産や育児が面倒であり、これまでの奢侈(しやし)で奔放な生活を維持できないという身勝手な気持ちから、それを「経済的理由」であるかの如く、すり替えて安易に堕胎し続けているのです。

 もし、少子化防止対策が必要であるとすれば、この野放図の中絶を止めさせればよいのであって、余計な対策は不要となり、その余計な対策費を育児手当とすればよいのです。これによって性風俗が乱れと、すぐに堕胎すればよいとする安易な風潮をなくして、家族の絆を深くすることができるはずです。


 ですから、皆さんは、お父さん、お母さん、御先祖様に感謝しなければなりません。いろいろな事情があったとしても、人工妊娠中絶の危機があったとしても、そのことを回避して乗り越え、少なくとも皆さんを産み育てていただいたから今のあなたがあるのです。

 そして、その有り難い縁(えにし)を家族全員で喜び合うためにも、正月は大切な意味があります。数え年なら、元旦はみんな揃って誕生日となり、一斉にお正月を迎えて歳を取り、そのお祝いと共に全員の誕生のお祝いの祭祀をすることになります。お正月が来たので、また一つ歳を取ったというのが正月の意義を噛みしめば、家族の絆は一層に深まることになります。ところが、今の満年齢での誕生日を認識するようになると、みんながバラバラの誕生日の認識となり、このようなお正月の風情は廃れてしまうのです。

 もし、満年齢で個別の月日の誕生日を祝うとしても、どうかこれからは祭祀として行ってみてください。よくある光景ですが、誕生日祝いでは、パーティーが開かれ、周りの人たちから「お誕生日おめでとう」と祝福されて、「ありがとう」と御礼を言い、バースデーケーキなどが用意され、余興をしてもらったり談笑したりして、プレセントを貰ってそれでお仕舞いという程度では、余りにも自己中心的です。即物的で民度が低く、寂しい限りです。そんな誕生パーティーというのは、意識の低い単なる寄り合い(烏合の衆)に過ぎません。誕生日というのは、確かに祝福される主役は誕生日を迎えたあなた自身ですが、祝福だけなら誕生日の意味がありません。自分を生み育ててくれた父母と御先祖様に感謝をしなければ誕生日の意義を見失います。その集会を開くにしても、その始めに、祭祀としての祭礼がなければならないのです。誕生日とは誕生感謝日のことです。その誕生節の祭礼の主宰者はあなたであり、お父さん、お母さん、御先祖様に感謝し、手向け物やお供え物は、あなた自身が自ら用意しなければならないのです。周囲の人々からプレゼントを貰ったり遊んだりするのは祭祀でも何でもなく、単なる私的なことですから、これは「ケ」です。しかし、このように周囲の人たちまで集めて行う誕生日の祭礼は、「ハレ」です。貰ったプレゼントをそのままお供えするような横着なことをしてはなりません。自らの手で作り、あるいはお供へ物として特別に用意した品物を父母や育ててくれた方々に差し上げたりお供えしたりして、この世に生を享けた(う)ことの喜びと、自分を生み育てていただいた父母、養父母と御先祖様に感謝の誠を捧げて、ハレの誕生節の祭礼を厳かに執り行い、その後は、ケの直会(なおらい)として、思うとおりの楽しい誕生パーティーをすれば、メリハリの利いた有意義なひとときを過ごすことになるはずです。


平成二十二年一月二十五日記す 南出喜久治

元の文章はこちら 國體護持塾ホームページ 祭祀の道
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