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教育とは

今回の記事は國體護持塾の見解ではなく、筆者個人の感想である。従って、筆者の独断も含まれている。しかし、その独断もあながち間違いとは言えないと思う。

公募で就任した大阪の民間あがりの校長が3ヶ月で辞めたというニュースを聞いて一言。この元外資系サラリーマンの校長が辞めた理由は「自分の力が発揮できるところではなかった」「給料が安かった」などである。

教育とは自分の力を発揮する場ではない。この校長はとんだ勘違いをしている。教育とは自己実現ではない。そんなに甘い世界ではない。

そもそも、教育とはなんぞや。教育とは国家の礎を築くことである。つまり、教育とは国防にほかならない。教育がなければ、国家は滅びる。立派な人間を育てることは、国家にとって最大の防御である。従って、教育とは、自らの利益のためにするものではない。国家に対する責務を自覚した志ある一部の人間が、自ら進んで犠牲となる行為なのである。

しかも、よそ様の子供を預かって、一人前にすることである。このことの責任は極めて重大であり、これを軽々しく考えてはならない。すべては犠牲的精神の上に成り立つ。教育に身を置くものは、損をすることを覚悟しておかなくてはならない。

サラリーマンの方は一生懸命働き、社会に貢献することによって給料を得て、自分の生活を安定させようとする。これでよい。しかし、教育とは本来利益を生み出すものではない。この点が企業と異なる。従って、教育者は給料を得るべきでない、というのが理想である。親が子供を教育する場合、親が子供に金を要求するか?そんなことはない。学校教育もこれと同じである。教育者は金を欲しがってはならないのである。精々、三度の飯にありつける程度の給料を得ることができれば、それでよい。

教育者はなぜ聖職者と呼ばれるのか。それは利益を求めず、ただひたすらに子供の幸せと祖国の発展のために尽力するからである。教育者は労働者ではない。労働により富を得る存在でないからだ。しかし、教育者は労働者でもある。なぜなら、自らの精神と肉体を酷使し、体当たりで指導に当たらなくてはならないからである。

教育者が忘れてはならないことは、利益を度外視した部分にこそ、自らの存在価値があるということである。

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