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-占領典憲パラダイムの転換を求めて- 10/11 【谷田川文書について】

 ここで述べられている非礼な言葉遣いや礼儀のなさについて忠告してもおそらく直らないと思うので、ここでは指摘しないが、こんな汚い口からご皇室のことが語られていると思うとおぞましい限りである。せめて、谷田川氏が批判している所功氏の気品を備えてくれればと願う。

 ともあれ、この谷田川文書の趣旨は、以下のとおり纏められると思う。

1.「憲法違反=無効」ではないというのが法学一般論であるから、帝国憲法に違反したからと言って占領憲法を無効とは言えない。学術的に敗北している。
2.憲法が法体系の頂点にあるから、それを縛る存在がないので、国家の中で憲法が一度機能した以上、無効にすることは不可能で、前の憲法と関係のない独立した憲法が成立するのだ。
3.占領憲法が国家としての憲法であれば、革命が起こったことになり、無効論も八月革命説も同じことを言っているに過ぎない。無効を主張すればするほど八月革命説を擁護することにしかならない。
4.天皇陛下、国会、内閣、司法、行政のすべてが占領憲法を憲法という前提で動き、国民の99%以上が憲法だと認識しているのを、法学的に妥当性・実効性を満たしていると言う。一方で、貴族院、枢密院はなくなった、華族制度はなくなった、という状況で、帝国憲法が現存しているなんて言うのは、ほぼファンタジーの話であって、こういうのを学問レベルでは、妥当性・実効性がないというのだ。
5.政治論としては、こんな憲法は認められないというのはわかるけれども、政治論と法学論を混同しているから危険だと警告している。
6.本当の無効論とは「本来なら無効」であって、主権回復時にGHQ憲法を憲法としてしまったのを、政治論としてどのようにして本来のあり方に戻すべきなのかを、みんながまじめに考えるべきである。


 ところが、これは議論として全く咬み合っていないことが判る。
 前にも述べたが、近代合理主義、成文法主義、法実証主義の影響を受けた法学は、共産主義との親和性がある。それは、それが主権論に基づくからである。そして、この対極にあるのが國體論であることは、拙著『國體護持総論』第一章で述べたとおりである。小山氏、倉山氏、上念氏、谷田川氏に共通するのは、国民主権論者であるということである。つまり、国民を主人とし、天皇を家来とすることを認めるのである。天皇の地位は「国民の総意」基づくとするが、これは「the will of the people」であつて、「人民の意志」とあり、ルソーの言う一般意志である。国民の意志ではなく、人民の多数決の意志で天皇の地位は決まる。天皇の生殺与奪の権を人民が持つ制度が占領憲法第1条であり、これは天皇条項ではなく、国民主権条項である。GHQが最後までこの条項に拘った理由がここにあるのである。
 「天皇は国家のために存し賜うものにあらず」という杉本五郎中佐の『大義』に書かれた意味が理解できないのは誠に嘆かわしい限りである。
 家来の天皇を否定し蔑ろにする左翼が「暴君」であるとすれば、谷田川氏は、家来の天皇を労り慈しむ「名君」になりたいのであろう。しかし、なんという傲慢な考えを持っているのか、あまりにも情けない限りである。天皇を家来とする占領憲法を是とするのは、「尊皇家」ではあり得ない。

 ところで、1は、前述したとおり、近代法学という明確な確定理論が存在しないのに、これしか法学が存在しないかの如き独りよがりの主張である。社会科学が科学であれば、帰納法による証明しかなく、演繹法による証明は不可能である。革命法学の仮説を帰納法による証明をせずに問答無用で真理だと主張するのは科学ではなく宗教に他ならない。近代法学が異論を挟まないほどの真理であることの証明責任は、主張者にあるので、それをまず証明しなさい。

 憲法無効論は、これまで多くの学者が主張してきた理論であって、いくら別の価値観による近代法学の立場に立ったとしても、その存在意義と理論を全否定することは不可能である。他説の存在を認めて自説を展開するのが学問に携はる者の姿勢である。そのこともできない者には学問を語る資格はない。学問に必要な謙虚さが全くないのである。

 占領憲法が憲法として有効であるというのであれば、これまで有効説と同様に、どのような根拠に基づき、それが何時から有効となったのかを明確に説明すべきである。「近代法学」の論理なるものによって有効になると主張するのであれば、その「近代法学」とは何なのか。その具体的な内容と根拠の説明、さらには、それ以外の見解が成り立たない理由を明確に示すべきである。他の見解が成り立たないとするのが近代法学なのだと言うのであれば、それは八月革命説と同様に、見事な循環論法の矛盾を犯すことに気付かねばならない。論理学を無視した法学というものが成り立たないことを肝に銘ずるべきである。

 次に、2であるが、これは、憲法典を越える上位規範が存在するのか否かの議論である。これが最大の問題である。これを否定すれば國體は否定される。國體の支配も立憲主義も否定される。憲法は作られる法であり、祖法として発見される法ではないとすれば、すべては革命思想になる。どうして憲法典を越える上位規範が存在しないのかについて立証してほしいものである。先ほど述べたとおり、やまとことばを否定する法律が可能か否かについて論証してもらいたい。
 「前の憲法に違反するか、しないか、ということが、新しい憲法の効力論と関係がない」という論理は、革命国家について言えることであって、伝統国家には適用されない。旧権力を打倒して新権力が樹立される自律的な国内政治現象を「革命」と言い、この政治現象を国法学的に説明すれば、旧権力の憲法が新権力の新しい憲法とは法的連続性がなく両立しえないことは当然のことである。

 結局のところ、占領憲法が憲法として有効であるとするのであれば、八月革命説と結論は同じことになる。それでは、いつ時期に有効となったのかを明らかにすべきである。始源的か後発的かについて具体的に明らかにすべき必要がある。

 3については、全く意味が解らない。占領憲法は憲法ではないとしているので真正護憲論の批判にはなりえない。
 八月革命説に対する批判は、相原良一博士の説明(憲法正統論)で十分である。循環論法となり論理破綻しているとの指摘である。私も『國體護持総論』でこれを指摘したが、これによって八月革命説は学界の支持を失うに至ったのである。仄聞するに、少なくとも憲法学会に属している学者に八月革命説を支持する者は居ない。

 4については、妥当性と実効性の意味が解っていないことを暴露している。帝国憲法は一部運用停止になっているのであり、これを以て妥当性と実効性が喪失したことにはならない。帝国憲法の枢軸となる講和大権は独立の根拠となって現存しており、その他の大権事項もまた否定された例はない。昨年3月16日の陛下のおことばは、関東大震災でも発令された帝国憲法第8条の緊急勅令である。また、臣民の権利義務に関する条項は、形式上は占領憲法の各条項を経由して妥当性と実効性が実現されているものであり、占領憲法の妥当性と実効性というのは、講和条約としてのそれであるということである。

 5と6は熨斗を付けて返してあげたいものである。これまで、法理論と政治論とが区別できずに議論してきたと指摘してきたのは私である。チャンネル桜の4月21日放送の討論における私の発言と、他の出演者の反応からしても明らかなことである。
 また、占領憲法を「消す」というのは、どうすることなのか判らないので、どのようにそれを実現するのかについて具体的に説明してもらいたい。さらに、これに限らず、改正論者として、それをどのように実現するのかについてのロード・マップも是非とも示してもらいたい。
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