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おさなここち4 -蜘蛛の糸-より

國體護持塾の中で日本の自立再生を実行する!うけひのもり学園の月刊誌に掲載させていただいたお話を転載させていただきます。

今回は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(「芥川龍之介全集 第3巻」岩波書店)について お話します。これを要約すると次のような短い童話です。引用した部分は「」がきをしていますが漢字を平仮名、カタカナにした所もあります。
 「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池の淵を一人でぶらぶらお歩きになっていらっしゃいいました」蓮池の淵に佇んで水の面(おもて)に浮かぶ蓮の葉の間から下の地獄の様子が見えています。そこに「かんだた」という男がいて、この男は「人を殺したり家に火を付けたり、色々な悪事を働いた大泥棒」ですがたった一つだけよい事をした事がありました。それは深い林の中を通った時に道端を這って行く小さな蜘蛛を見て踏み殺そうとしましたが、「いや、いや、これも小さいながら命のあるものに違いない。その命をむやみに取るということはいくらなんでもかわいそうだ」と思って蜘蛛を殺さずに助けたという事です。お釈迦様は「それだけのよい事をした報いには出来るならこの男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。」そして、蓮の葉の上にいた一匹の蜘蛛を手に取りそれを「遥か下にある地獄の底へ真っ直ぐおろしなさいました。」その時、かんだたも他の物と同じく血の池の地獄で苦しんでいましたが、そこに蜘蛛の糸が自分の上に垂れて来たのを見て「思わず手を打って喜びました。この糸にすがり付いてどこまでも登って行けばきっと地獄から抜け出せるに相違ございません。いや、上手く行くと極楽へ入る事さえも出来ましょう」と思いました。そして、蜘蛛の糸を両手でしっかりと掴みながら上へと登り始めました。暫く登る内にくたびれて登れなくなりましたので、一休みするつもりで、糸の中途にぶら下がりながら遥か下の血の池を見下ろしました。そして、このまま登っていけば地獄から抜け出せると思い、地獄に落ちてから何年も出した事のない声で「しめた。しめた。」と笑いました。「ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下のほうには数限りも無い罪人たちが自分の登った跡をつけて、まるで蟻の行列のようにやはり上へ上へと一身によじ登ってくるではございませんか」自分一人でさえ切れそうな細い糸で多くの人数の重みには耐えられず、切れてしまえばせっかくここまで登ってきた自分までが再び地獄に落ちてしまいます。かんだたは驚きと恐ろしさで大きな声を出して「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺の物だぞ。お前たちは一体誰の許しを受けて登って来た?降りろ。降りろ」と喚きました。「その途端でございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が急にかんだたのぶら下がっている所からぷつりと音を立てて切れました。」そして、かんだたはひとたまりもなく、まっさかさまに地獄へと落ちてしまいました。
「お釈迦様は極楽の淵に立ってこの一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてかんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、かんだたの無慈悲な心が、そうしてその心相当の罰を受けて元の地獄へ落ちてしまったのが、おしゃかさまの御目から見ると、浅ましくおぼしめされたのでございましょう。」
 こんなあらすじの話ですがこの話については、これまで色々な批評がなされて来ました。例えば、少し難しい議論になりますが、阿弥陀仏が教主である極楽の国に、どうしてお釈迦様がいるのですか、これはお釈迦様ではなく阿弥陀仏(如来)の 誤りではないのですか、ここは阿弥陀仏の極楽ではなく釈迦物の霊山(りょうぜん)浄土ではないのですか、などと言った仏教的な疑問もありました。しかし、もっと素朴で 根本的な事として、雲を踏み殺さなかった事が地獄から極楽へと救われるほどの善行(良い行い)と言えるのでしょうか、と言う疑問です。浦島太郎の話も、「助けた亀」でした。生き物をむやみに殺さない事は当然の事ですが、だからと言って、この程度の事で極楽に行けたり、竜宮城に行けたりするという事を簡単に思ったりしては道徳的に立派な人にはなれないのです。また、この物語の最後の辺りに、「お釈迦様の御目から見ると、浅ましく思し目されたのでございましょう。」とあります。しかし、この表現に納得できない人が多いのです。 「浅ましい」と思うのではなく、お釈迦様なら「憐れ」と思し召したはずだとするのです。
 ともあれ、かんだたが自分だけ助かれば他人はどうでも良いとした事から、蜘蛛の糸が切れてしまった事の意味する所は、お釈迦様の教えが、自分一人の悟りの為でなく多くのの人の為であると言う大乗仏教の教えを優しく説くためであると思います。
しかし、蜘蛛の糸がかんだたの手元から切れた原因は、一体何だったのでしょうか。登ってくる多くの罪人の重みに耐え切れずに物理的に切れたでしょうか、お釈迦様が切ったのでしょうか、かんだたの心の働きの作用で切れたのでしょうか、かんだた自身が自分で切ったのでしょうか。それとも・・・これを考える事に、この童話の真のの意義があると思います。 みなさんでそれぞれ良く考えてみて下さい。

平成22年8月14日記
南出 喜久治
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