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おぞましいものを利用する

おぞましいものはこの世にいくつも存在する。糞尿、害虫、占領憲法・・・。しかし、おぞましいからといって排除して、「ハイ終わり」で済むだろうか?そうしたい気持ちはよくわかるが、それができないのが日本人である。

物を廃棄せず、再利用する。これが日本人の生活の知恵である。

日本人は糞尿に至るまで、肥料として用いてきた。奈良・吉野のどエライ田舎で生まれ育った母が言うには、糞尿を肥料にした昔の野菜は相当美味しかったようで、栄養満点だったそうである。だから、日々の食事は野菜と漬物とお粥だけだったが、元気に生きていた。時々、行商が来て、魚を頂くこともあったらしいが、これは珍しいことだったという。

私の母の故郷では害虫も再利用する。あの、世にも恐ろしいムカデさんが出たときには、それをやっつけて油の中に入れて薬にしていた。私は子供の頃、怖いもの見たさから、それを入れたガラス瓶を底から見上げるのが好きで、あまりの気色悪さに、弟に見せて楽しんだ。しかし、この薬は臭いのだが、実によく傷に効く。害虫と言われる生き物も、生活に役立つのである。

西洋思想は人間中心主義であり、人間に害を及ぼす物は圧倒して制覇して、叩き潰す。共生はしない。しかし、あとになり、生態系の変化に気づき、慌てて保護をする愚かさである。

占領憲法はどうだろうか。これは日本人にとって心底害悪である。日本人の価値観を否定し、毒を注入し骨抜きにする。当然、これを叩き潰して、早く葬り去らねばならない。だから、私は無効宣言することを主張している。しかし、これは国の中枢にまで入り込み、即座に破棄すれば、国の法体系や裁判の判例にまで影響を被る。

だからこそ、ここで日本人は知恵を発揮する。

真正護憲論では、占領憲法は帝国憲法第76条に基づき、帝国憲法に矛盾しない限度において、その効力を認め、再利用するのである。たとえ、こういうおぞましい「憲法」であっても、それを何らかの形で再利用し、一端留保させる。何もアメリカ人が作った物だからといって、即座に叩きだす必要はない。占領憲法を薬のように上手く利用して、左翼をなだめるための精神安定剤にも使える。いきなり破棄することで、うるさい連中が騒ぎ出すから、一端、留保させ、国民を安心させられる。「実は占領憲法は講和条約でした」ということで、「言われてみればそうだよなあ」との声が出てくるに違いない。そして、我が国が帝国憲法の復元改正への道筋が確保できた時点で破棄すればよい。




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連載 千座の置き戸(ちくらのおきど) 第一回 逆事と祭祀-2/2

塾HPで新たに開始されています 
塾HP掲載分
連載 千座の置き戸(ちくらのおきど) 第一回 逆事と祭祀

こちらにはかなと一部読み仮名を付けた物を掲載いたします。 本日は後半部分

特攻隊の隊員が、親に先立つ不孝を詫びるのは、自己の死を自覚しながらの「大義親を滅す」の思いの裏返しだからです。孝から忠へ、そして祖国愛へとつながる本能の序列において、最も高次の本能である祖国愛に殉じた人を英霊として祭るのですから、親に先立った息子を「親不孝者」とは決してしないのです。

 人の死は、その周りに居る残された人たちに様々な波紋を残します。その死が、事件、事故、災害、戦争などの様々な原因や理由の違いによって、誰かを怨んだり、誰かから怨まれたりすることになります。誰かが原因となり、あるいは本人が原因となって人を巻き込むことが多いからです。そのようなことのない不慮の災害や突然死の場合は、誰に対しても怨まず、誰からも怨まれないことが多く、それだけでも残された者の苦しみが少なくなることは幸いです。
 しかし、普通の場合は、怨みを残し、怨みを受けるものですが、ここで皆さんによく心に刻んでほしいことは、たとえどんなに大きな罪を背負って死に至つても、「怨みに報ゆるに徳を以てす」を説いたものが「古事記」にあることです。

 それは、スサノヲノミコトが高天原を追われるときの「ちくらのおきど(千座の置き戸)」のことです。スサノヲは、ウケヒによって、後にアマテラスの養子となるアメノオシホミミノミコトを産み、これによつて心の至純さを証明できたのですが、どういう訳か高天原に戻った後に傍若無人な振る舞いをしたことから、すべての罪状を「ちくらのおきど」に並べ立てられ、それを一身に背負って過酷な罰を受け、高天原を追放されます。追放というのは、神の世界では死刑を意味するのです。このスサノヲの高天原追放の話には、語られていないもっと深い話があるはずです。

 高天原を追放されて出雲に下ったスサノヲは、見違えるほどの活躍と貢献をするのです。そこには、高天原の神々に対する恨み辛みが全くありません。出雲とは世界の雛形であり、スサノヲは専心に地球上の人々の苦しみを取り除くことに尽くす姿が古事記には示されているのです。

 スサノヲのような神は、世界には居ません。スサノヲは至尊であり、だからこそ、イザナギ→スサノヲノミコト→アメノオシホミミノミコト→ニニギノミコト→ホオリノミコト→ウガヤフキアエズノミコト→カムヤマトイワレヒコノスメラミコト(神武天皇)と続く男系男子の皇統の皇祖であることに我々は大きな誇りを感じることができるのです。

 罪とは、すべての人々の心身の病であり、それは心身の貧困が原因です。世界の人々の病や貧困を救うのはスサノヲの本願です。それゆえ、どんなときにでも祭祀を実践して逆事を乗り越え、我々もスサノヲの本願を実現したいものです。

新連載 千座の置き戸 第一回 逆事と祭祀-1/2

新連載 千座の置き戸が始まりました。

塾HP掲載の原文はこちら 千座の置き戸(ちくらのおきど)〈続・祭祀の道編〉

こちらのブログにはかなと一部に読み仮名を付けた物を掲載いたします。


連載 千座の置き戸(ちくらのおきど)

              第一回 逆事と祭祀

                    南出喜久治(平成二十六年四月一日記す)

いとしごの あらきのにはに うちふして あすのわかれに なみだあふるる
(愛し子の殯の庭に打ち臥して明日の別れに涙溢るる)
うちしづむ こころのなみに ただよひて あがこのかげを したふゆうぐれ
(打ち沈む心の波に漂ひて吾が子の影を慕ふ夕暮れ)
さかごとの ちくらのおきど おひてなほ ひたすらあゆむ くにからのみち
(逆事の千座の置き戸負ひて尚只管歩む國柄の道)
さかごとに などてたやたふ ことやある いにしへびとの たどりきしみち
(逆事に何どて揺蕩ふことやある古人の辿り来し道)
さりとても やむにやまれぬ かなしさを いかでわするる ことぞあらんや
(然りとても止むに止まれぬ悲しさを如何で忘るることぞあらんや)
ひとりゆく こころけだかき いとしごよ わがみちてらす ともしびとなれ
(一人逝く心気高き愛し子よ我が道照らす灯火となれ)


 「祭祀の道」の連載を終へ、新たに「千座の置き戸」として、これからは内外の時事問題なども視野に入れた新たな連載を開始することにします。まず、第一回は、「千座の置き戸」の名前に由来する話から始めます。

 親より子が先に亡くなることを大和言葉で「さかごと(逆事)」と言ひます。仏教や儒教などでは、これを「逆縁」と言って忌み嫌いますが、古神道による祭祀の道では、そんなことはありません。死を悼むことはあっても忌み嫌うものではないのです。神道で死を汚れとするのも、おそらくは儒教や仏教の伝来、それに延喜式による神道の変質によるものと思われます。「祭り」というのは「奉り」の類語で、祖先や一族の死者の霊を迎えて、手向け物を献上し、神人共食で語り合うことですから、死者を忌み嫌うことはないのです。

 逆縁という言葉は、そもそも仏教用語で、仏に反抗し、悪事をなし、仏道を誹った(そしった)ことが逆に仏道に入る因縁となることを意味しますが、それが転じて、親が子の供養をするなど、年長者が年少者の供養をすることの意味になりました。

 そして、儒教では、逆縁は最も親不孝なこととされ、忌み嫌われることとなり、我が国でも、親は葬列では子の位牌や遺影を持ってはならないとか、親は火葬場に行ってはならないなどの風習が広がりました。特に、儒教の強い形骸が残る韓国では、今では少なくなりましたが、逆縁では密葬して葬式をしないことも昔はありましたし、祖先の墓に納骨させないこともありました。こんなことは到底納得できる話ではありません。

 「親が死に子が死んで孫が死ぬ」

 これはめでたい意味の俳句として詠まれましたが、これは逆縁ではなく順縁を説いたものだからです。しかし、子が親よりも前に先立つことは、子が身勝手な自殺をしたのではない限り、どうしてそれが「親不孝」として忌み嫌はれるのか理解に苦しみます。一神教的で、しかも一方方向的な祭礼を重視した形骸化した儒教だからこそ、そんなことを言うのです。子が先立つのは、決して「親に対する不孝」ではなく、「親の不幸」であって、子に責任はありません。

祭祀の道 第六十回 家産と貨幣経済(その六)-2/2

昨日に続いて 祭祀の道 第六十回 家産と貨幣経済(その六) を掲載いたします。
こちらには 一部読み仮名を付け、仮名遣いを慣れている物に変更しております。


 ところで、この原稿を書いている最中に、ビットコインの世界最大級の取引所の一つである「マウントゴックス」(東京)のサイト上に「全ての取引を当面停止する」との声明が2月26日までに掲示されたとのニュースが報じられました。そして、これに対応して、世界のビットコイン取引所など6社が同日までに出した共同声明によると、「マウントゴックスは利用者の信頼を裏切ったが、これは1社の問題」であると強調していますが、この現象は、確実に通貨信仰の崩壊を招くことになるでしょう。

 ビットコインで濡れ手で粟を掴んだ人々は、株式その他の債券又は金融派生商品で大儲けした人と性根は同じであり、いずれも賭博経済の勝ち組です。このような賭博経済がまかり通る世界では、生産労働と収益との均衡、労働価値と通貨量との均衡、通貨発行権の本質と限界について、誰も本気で耳を傾けることはありません。

 マルクスが描いた共産主義という設計社会の実験は完全に破綻しましたが、労働価値説というのは、ある一面において正しい方向を示唆していました。それは、価値の創造とは人間の営みによるもので、それには一定の限界があり、打ち出の小槌を振って際限なく安易に価値が造られることはないという視点でした。マルクスは、通貨は宗教のようなものだと言うようなことを言っていたのです。もし、その視点を得体の知れない「通貨」の価値の創造という点に向けられていれば、通貨の本質を解明することができる可能性があったのですが、それが全くできなかったのです。
 つまり、通貨が富の蓄積と偏在を生み格差を広げる元凶であるとしたのであれば、通貨発行権の本質と帰属について考察しなければならないのに、それが最後までできなかったのです。

 そして、レーニンは、マルクスの思想を忠実に実行して一旦は通貨を廃止したのですが、マルクスと同様に通貨発行権の本質を理解できなかった為に、1年足らずで通貨を復活せざるをえませんでした。その原因が何であるかを探求すれば、マルクス主義の否定に至ったはずですが、それをしないまま見せかけの革命を追行して巨大権力を暴走させたことから、その後に人類史上特筆すべき凄惨な虐殺の悲劇を生むことになりました。

 虐殺と言えば、毛沢東やスターリンが思い出されますが、カンボジアのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)も忘れることができません。ポル・ポトは、毛沢東の残虐さの足下に及ばないとしても、毛沢東思想を熱烈に信奉し、対ベトナム自立と武装闘争路線に傾斜したため、不信の連鎖によっておびただしい数の国民の生命を奪ったことは、いかなる意味においても肯定できるものではありません。

 しかし、ポル・ポトが掲げた政策を冷静に分析したとき、現代社会の経済制度に問いかける反面教師の役割を果たしたものと理解することができます。これによって、現代の経済制度や通貨制度の病巣があぶり出されてくるのです。
 昔も今もカンボジアは農業国ですが、ポル・ポトは徹底した農本主義的な共産主義を唱え、「反都市」、「反貨幣経済」、「反知識人」の路線を掲げました。もちろん、共産主義ですから、家族制度の解体を標榜(ひょうぼう)したため、多くの国民には到底受け入れがたいものでした。

 ポル・ポト派は貨幣経済を否定し、通貨の流通を停止して銀行を解体させ、食料生産を担う農村の共同体を国家の基本に据えて、食料生産力を持たずに消費するだけの都市住民や食料生産者を見下して生産に貢献しない知識人は、農村を収奪して疲弊させる「寄生虫」とみなして強制的に帰農させたのです。そして、これに逆らう者には悉(ことごと)く死を与えたのでした。

 このうち、「反都市」と「反知識人」というのは、五・一五事件で最高刑の無期懲役に処せられた橘孝三郎の思想と形式的には近似しますが、明らかに似て非なるものです。ポル・ポト派は、「家族」を解体し、個人主義や合理主義による根無し草の村落共同体を夢想したために、このような村落共同体というのは長続きしませんでした。ポル・ポト派の失敗は、家族を単位共同体の構成要素としない抽象的な村落共同体というものが成り立たないことを証明したのです。ポル・ポトと橘孝三郎との決定的な違いは、拙稿『同工異曲の原発問題と安保問題』を参照してみてください。

 また、「反貨幣経済」というのは、レーニンの当初の路線を引き継いだものですが、ここには、やはり、通貨に絶対的な価値を認めないという考えが根強く横たわっています。通貨といふものは、バーチャル(仮想的、虚像的)なものであることを直感で理解していたのです。

 現在の通貨制度に疑念も持ち、その根本を否定して改めようとする考えに対しては、とんでもないことだと言って語気荒く批判する人や、一笑に付してこれを無視する人が殆どです。しかし、その人たちの判断は、自分の頭で世の中のことを真剣に考えたものではないはずです。人の受け売りか、「常識」という名の「思考停止」の産物なのです。

 これまで、6回に亘って『家産と貨幣経済』で、通貨の本質、とりわけ通貨発行権の本質についての理論経済学的考察をしてきましたので、拙稿の読者なら、現在の通貨制度が極めて危ふいものであることを感じているはずです。
 そのようには感じないのは、賭博経済に心身ともに委ねている人ですから無駄でしょうが、もし、そのように少しでも感じられたのであれば、是非とも拙稿の『國體護持総論』第六章の「増補版」を通読されることをお勧めして、この稿を了することとします。

祭祀の道 第六十回 家産と貨幣経済(その六)-1/2

塾HPに毎月1日に掲載しております。
青少年のための祭祀の道 こちらにも貼らせていただきます。


青少年の為の祭祀の道で 『貨幣とは』という事について書かれていましたその最終回です。
 第六十回 家産と貨幣経済(その六)

かくのごと こづちはただの まがひもの はやくうちでの はまにしづめよ
 (斯くの如小槌は徒の擬物早く打出の浜に沈めよ)

 デフレからの脱却、インフレへの誘導が望ましいことだという原理主義的な掛け声(呪術)を用いて、通貨量を過剰に供給し続けるという政策を実施し、呪術のとおりの状態が生まれるのだというマインド・コントロール(集団催眠)の効果によって、急激な円安を招き、産業の基盤となる石油やLPGの輸入量の増大と輸入原価が高騰によって貿易収支は大きな赤字となり、経常収支も赤字になりました。円安になれば輸出が増大して経済を牽引するという予測は、大きなタイムラグの壁の前で破綻したということです。

 自由主義経済と言いながら、実のところ、財政と金融に関しては、ケインズ経済政策を嚆矢(こうし)とする「計画経済政策」を当然のごとく受け入れて、これでも「自由経済」なのだとして、何らの疑問も抱かない空気が世相を支配していますが、こんな状態は、自由主義経済社会からは程遠い姿なのに、それを自由な状態だと信じ込んでいるのですから、慣れとは恐ろしいものです。自由ではないのに自由であると信じ込むことの大きな矛盾を抱え込んだまま、世界はこれから一体どこへ向かって行くのでしょうか。

 もし、自由主義経済には限界があって修正を余儀なくされる欠陥原理なのだというのであれば、そのように説明して国民の納得を得るべきなのです。そして、自由主義経済には限界があり修正を余儀なくされるのであれば、この重要な要素である自由貿易にも限界があり、修正しなければならないと説明して、これを世界共通の認識とすべきなのですが、自由貿易は正しいのだというリカードなどの原理主義が未だに世界を支配していて、TPP、FTAなどによってさらに自由貿易を広げようとしています。偽りを続けることは、輝かしい世界の将来を望むことはできません。この矛盾と偽りを続ける限り、世界はこれからも混乱し続けるのです。

 そもそも、自由主義経済を支へうる政府というのは、「小さな政府」でなければなりません。政府の関与は、国防(軍隊)や治安(警察、消防)などの必要最小限度の公共事業に限定され、経済活動などの、それ以外のことはすべて民間の活動に委ねられることになります。

 これに対し、「大きな政府」とは、福祉や文化などに対してまで積極的な国家関与を容認した国家観ですが、この国家観を肯定したラサールが、この自由放任主義による「小さな政府」の国家観を揶揄(やゆ)して「夜警国家」と名付けたことは有名ですが、ケインズ経済に代表される「大きな政府」は、いまや世界的に広がりを見せてをり、「大きな政府」の大きさの程度の違いはあっても、いまや世界には「小さな政府」は存在しなくなりました。

 つまり、厳密に言えば、自由主義経済社会であつた時代は過去に一度もなかったのであり、近年にあっては、財政と金融について政府が主導的に行う「修正資本主義」によって支配された世界だったのです。修正資本主義というのは、資本主義による弊害を除去して、富の再配分と雇用の拡大を実現する福祉主義として、国家による積極的な関与を肯定する「大きな政府」の思想なのです。

 この国家による財政と金融の政策が効果をもたらすためには、これを実施する政府に「信用」がなければなりません。その信用において最も重要なものとしては、中央銀行の発行する「通貨」に対する信用なのです。

 最近において、これが崩れたのは、EUの信用危機の先駆けとなったキプロスにおける信用不安を招いたキプロス危機です。
 キプロスでは、平成24年6月、ギリシャの財政危機の影響で、ギリシャ国債を多く保有する国内金融機関の経営が悪化したため、EU(ヨーロッパ連合)に金融支援を要請しましたが、その支援の条件として預金課税の提案を受けたのでした。このことから、預金に一律課税して預金の一部を強制的に取り上げようとするのではないかとのキプロス国家に対する不信による騒動がキプロス危機と呼ばれるものです。

 そして、このキプロス危機を契機として、世界では「通貨」に関する設計主義運動が大きく展開しました。それが平成20年ころから始まったビットコイン(Bitcoin)といふ仮装通貨です。コンピュータやスマートフォンで、専用アプリを導入すれば誰でも買える「通貨もどき」で、この5年間で80か国以上に拡大し、数百万人が利用し、取引通貨総量は1兆円を超えていると言われています。
 送金は金融機関を経ずに個人で直接に送金できるし、交換所もあって、各国の中央銀行からは解放されています。投機対象ともなって、平成25年1月から12月までの1年でその価値が100倍に高騰しました。

 このビットコインの構想は、平成20年に、Satoshi Nakamotoの名で何者かがネット上に公開した論文が嚆矢となったもので、「国家から独立した通貨」というコンセプトで多くのプログラマーによって創造された仮装通貨として、このビットコインが生まれました。
 ビットコインは、匿名で入手できるもので、その発行量には上限(2100万円)があって一定の制約はあるものの、麻薬取引などの闇取引やマネーロンダリングに使われた実例もあることから、これを阻止するための各国の対応は様々です。

 ドイツ、シンガポールは、ビットコインを「金融商品」として承認して、これに課税するという「容認」の方向ですが、アメリカやフランスは、これによる取引リスクはあくまでも自己責任であるとして「警告」していますし、自国通貨を発行する中央銀行に信用不安の懸念がある中国、インド、タイなどはこれを「禁止」しています。日本では、その対応を「検討中」ということです。

 平成25年12月5日に、中国中央銀行が禁止措置を発表したところ、その時の相場は1ビットコインが10万円以上の高値であつたものが、2日後の12月7日には5万円程度に半減したものの、その後は再び急騰しました。このことによって、ビットコインは、その目的とした「国家から独立した通貨」であることの実績を得たことになり、その後は「金融商品」としての世界的な地位を確立したと言えます。

 しかし、ビットコインが「国家から独立した通貨」というのは偽りです。ビットコインは、各国の通貨との交換によって成り立っている「寄生的な金融商品」だからです。国家がなくなればビットコインもなくなるのですから、独立した通貨ではありません。羊頭狗肉(ようとうくにく)の金融商品であり、強いて言えば「寄生通貨」なのです。

 ともあれ、人々がビットコインに群がるのは、現代における「通貨」の本質を端的に示したものと言えます。それは、「通貨」として認識されて流通するのは、それ自体に信用の担保となる通貨発行の財源と実物価値が確保されているか否かなどによって決定されるのではなく、「みんなが通貨と信じたものが通貨となる」ということなのです。これは、まさに「パブロフの条件反射」であり、「通貨宗教」という通貨信仰のみによって支えられた虚構の産物なのです。
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