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教育勅語発布の日

大変遅い時間になってしまいましたが、本日、10月30日は

教育に関する勅語 発布の日 ですね。
塾長としてお迎えしている南出喜久治先生はお父様の
教育勅語を復活させよという遺言でこういった活動のきっかけになさっています。

ぜひ、一度、声にだして読んでみてください


ちびっこによる教育ニ関スル勅語リレー1


【うけひのもり学園】白峯神宮にて教育勅語奏上

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『はだしのゲン』をめぐる市議会での発言削除について その後のご報告


前記事 『はだしのゲン』をめぐる市議会での発言削除について意見書

について

本会議上で議長報告が出来ました。
「去る9月18日の本会議において、こみやま議員から発言がありました、中嶋議員の一般質問の発言に対します
議事録削除の件については、議会運営委員会の意見もお聞きいたしまして、議事録削除の必要はないと
判断致しましたので報告いたします。」 
今回の意見書がなければ、共産党のペースにはまり、発言をした議員が謝罪するような事態になったことと思われます。

『はだしのゲン』をめぐる市議会での発言削除について意見書

岐阜県飛騨市議会において、『はだしのゲン』をめぐる市議会での市議の質問内容について、共産党市議より議事録からの削除要求があったという事がありました。

南出喜久治塾長が飛騨市議会議長あてに送付した意見書がございますので、転載させていただきます。
帝国憲法下ならばこのような議論すら起きないのですが、
この意見書に基づいて、削除はなされないという妥当な判断がなされる事を期待したいところです。



飛騨市議会議長 内海良郎 殿             

 平成25年9月27日

    意 見 書


平成25年9月18日の飛騨市議会においてなされた『はだしのゲン』に関する中嶋国則議員の一般質問の発言内容を議事録から削除すべきであるとする動議について、以下のとほり意見を述べる。

第一 意見の要旨
  議会議事録から表記中嶋国則議員の発言の一部又は全部を削除することは、違憲かつ違法であつて、これ認めるべきではない。

第二 理由
 一(教育を受ける権利を侵害すること)
  1 『はだしのゲン』は中沢啓治が自己の被爆体験を元にした「自伝的漫画」と喧伝されてゐることから、ここに記載されてゐる内容はすべて「事実」に即したものと誤解されてゐる。
  2 ところが、仮に、中沢啓治の被爆体験に関する記述や描写の事項が事実に即してゐるものであるとしても、それ以外の事項は明らかに虚偽のものがある。事実に基づく記述や描写に紛れて、意図的に虚偽の記述や描写を挿入し、これらすべてが事実であるかのごとく欺罔することがこの作品の狙ひでもある。
  3 吉田清治の『朝鮮人慰安婦と日本人-元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)及び『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』(三一書房)といふ、その内容全体がすべて虚偽粉飾である作品であれば、読者の警戒心が強まつて容易には騙されないとしても、一部は史実に基づいてゐると思はれる『はだしのゲン』は、一部が史実であることによつて読者の警戒心が希薄になり、そのやうな心理状態では、虚偽の部分を容易に事実と誤信する危険が格段に高くなる。そのことを見越して意図的に作られた作品が『はだしのゲン』なのである。
  4 『はだしのゲン』に虚偽の記述や描写があることは枚挙に暇がないが、次の点だけを見ても、この作品がノンフィクション(歴史書)ではなく、明らかにフィクションであり、しかも、歴史を捏造する思想洗脳作品であることが判る。
  5① それは、この作品において、三光作戦を描く部分である。
   ② 三光作戦とは、「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」といふ我が軍の作戦であつたとの記述は全く事実に反する。「・・・し尽くす」の意味に「光」を使ふのは日本語の用法でもなく、日本人の語感にもなじまない。
   ③ 当時の参戦者で「三光作戦」なる用語を聞いた者も居ないのである。「三光」とは明らかに中国語である。現に、中華民国の辞典『中共述語彙解』には、「三光」とは「分光」「吃光」「用光」といふ中共軍のスローガンであると記されてをり、中華人民共和国の『中国人民術語辞典』には、「焼光」「殺光」「搶光」といふ国民党軍の人民殺害方法であると書かれてゐるのである。
   ④ 武漢作戦に参加した第27師団の「焼くな、犯すな、掠めるな」というスローガンを中国側が逆用して捏造したのが「三光作戦」なる造語である。これを我が軍の作戦方法とする記述は事実を歪曲するものである。
  6 初等教育はもちろんのこと、およそ公教育においては、「真理教育」、すなはち真実を教へ真理を探求発見させるものでなければならないが、この作品が公教育の現場において補助教材や参考文献として用ゐられ、あるいは教員によつて推薦、推奨されたり、これを読むことを学習課題とされるやうなことになれば、真理教育を侵害する恐れがあるので、公教育の領域で使用される可能性があるこの作品は明らかに教育教材としては不適格である。それゆゑ、これを排除せずに公教育の現場で使用される可能性を放置することは、占領下の非独立時に制定されたとする占領憲法(日本国憲法)でも、その第26条で児童及び生徒に保障された真理の教育を受ける権利を侵害するものである。
 二(学習指導要綱に違反すること)
  1 また、この作品を公教育の補助教材として用ゐることは、文部科学省告示『小学校学習指導要領』などに違反する。
  2 すなはち、同要領の第1章第1によれば、「児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して、適切な教育課程を編成」とある。このことは、児童のみに限らず生徒についても同様であり、心身の発育過程にあり人格形成の途上にある児童生徒には、いはゆる「人格可塑性」のある脆弱さがあるために、発達段階を考慮しなければならないのである。残忍残虐な行為や猟奇的な行為を記述描写されてゐる作品を発育途上の児童生徒の目に触れさせることは決して好ましくなく、教育上の配慮を欠落させた不適切極まりないものと言へる。
  3 つまり、この作品で描かれてゐる前述の三光作戦なるものによる生々しい虐殺陵辱描写は、昭和12年7月29日に支那の通州において、冀東防共自治政府保安隊(支那人部隊)が我が軍の部隊、特務機関及び邦人居留民を襲撃して大虐殺した事件をモデルとしてをり、被害者の邦人と加害者の支那人とを倒錯させた売国的作品である。この事件によつて、我が軍は壊滅し、邦人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものが多かつたのであり、まさに、この作品は、露骨にその描写を忠実に行つてゐる。
  4 さらに、この作品の主眼とされてゐる被爆者の惨状の生々しい描写は、児童生徒にとつては余りにも刺激的である。
  5 このやうな猟奇的な描写や残虐性のある描写を人格可塑性があり心身が脆弱で抵抗力のない児童に見せることは、トラウマ(精神的外傷)を与へる危険性が大きく、精神形成における段階的な抵抗力を無力化させ、人格形成に重大な悪影響を及ぼすことになる。
  6 よつて、この作品は、公教育の領域からは完全に排除しなければならない。
 三(日本国憲法第1条に違反すること)
  1 次に、この作品は、占領憲法(日本国憲法)第1条において、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇に対する冒涜的発言が繰り返されてゐるのであつて、このことは、象徴としての地位を否定する違憲行為である。
  2 「最高の殺人者天皇」、「戦争狂いの天皇」、「天皇の奴が戦争をせいというた」など、天皇に対する暴言が繰り返され、しかも、これは歴史的事実とは程遠いことが明らかである。
  3 また、前掲『小学校学習指導要領』第2章第2節第2の「第6学年」3(2)エには、「『天皇の地位』については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること。」とあり、このやうな下品で虚偽の暴言を繰り返す作品は当然に公教育の領域外に置くべきなのである。
 四(表現の自由を侵害し議会制民主主義に違反すること)
  1 以上によれば、この作品が公教育から当然に排除されるべきもので、そのことを指摘した中嶋国則議員の一般質問での発言は至当である。
  2 これに対する反論は、削除を求めるといふ検閲的手法ではなく、堂々と言論を以て反論すべきである。見解の対立がある事項については、両論を併記して広く人々に知らせることが言論の自由、表現の自由を保障する適正な方法なのである。
  3 従つて、これを議事録から削除せよとの要求は、議員の発言が最大限に尊重されるべきことが憲法保障の重大な要素の一つとなつてゐる議会制民主主義を完全に無視して議員の表現の自由、言論の自由を否定する暴言であつて、もし、この暴言に付和雷同して中嶋国則議員の発言内容が全部又は一部削除されることがあるとすれば、それは、議会の自律権の範囲を逸脱して占領憲法(日本国憲法)第21条に違反する議会の自殺行為となることを自覚すべきである。

復元改正とゆとり教育世代

占領憲法体制下において、WGIP(自虐史観の刷り込み)を徹底的に受けた世代、または、ゆとり教育を受けた世代の再教育をどうするのか、が今後問題になると思います。前者はすでに高齢となっている人も多く、これまで培った価値観を覆すのは困難であり、人生の大部分を臨時代用法としての占領憲法の下で生きた世代として、長い我が国の歴史からすれば、やや特殊な位置づけがなされるのかもしれません。一方、ゆとり世代はまだ先が長いです。ところが、残念ながら彼らの価値観は実社会においてはほとんど通用しません。これはこの世代の自殺率の高さにも現れているのではないでしょうか。これまで教師に教えられてきた「ぬるま湯状態」から突然熱湯の中に放り込まれるわけですから、それに対応しきれない若者が出ることは十分に理解できます。残念なことに、多くの場合これを自覚できるのが社会に出てからです。しかし、まだ社会に出てからでも自覚できれば、ましな方です。最近、社会全体が彼らのレベルに付き合わざるを得ない事態も生じてきています。やはり、ゆとり世代はその名のとおり、本当にのんびりしています。しかし、彼らの多くは悪意もなく、まじめで良い子達です。従って、知らず知らずのうちに、彼らに付き合っているうちに日本のあらゆる方面での地盤沈下が進行するのです。

これを改善するにはまず社会全体において規範意識を取り戻す実践的な取り組みが必要となるでしょう。これを組織が個別に行うことはもちろんのことですが、国家全体の取り組みとして、国主導でなければなりません。こういうことを言えば、全体主義国家に変貌するなどという人もいるでしょうが、そう言う人には対案を出してもらいたいものです。

規範意識の回復は簡単です。まずは占領憲法無効宣言と帝国憲法の復元改正です。それに加え、1.挨拶の励行 2.言葉遣い 3.上下関係の徹底。これだけです。ゆとり世代が社会に出たあと、この3つを徹底して身につけさせることで、問題の多くが解決するはずです。できない場合には多少なりとも叱責をしても構いません。しかし、注意すべき点はゆとり世代を特殊な世代だとしてレッテルを貼り、彼らにだけこの3点を要求するのではなく、すべての日本人がゆとり世代とともにこの3点を励行することに意味があります。

教育勅語にはこうあります。「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」。これは「私(天皇)はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことをこいねがっています」という意味です。明治天皇におかれましても、臣民とともに教育勅語を一緒にお護りになることを誓われたのです。多くの場合、人に励行を要求する際に、「自分はできているから大丈夫」とか「自分はもうしなくてもよい」などと思ってしまうものです。しかし、これがいけないのです。人は常に自分を振り返り、襟を正し、生きていかなくてはなりません。

日本は国家という大きな家族です。臣民は皆天皇陛下の大御宝というこの上ない喜びを享受しているのです。この観点に立つと、ゆとり世代は少し甘やかされた感はありますが、未来の日本を担っていかなくてはならない大切な人たちです。日本人皆が彼らの足りない部分を自分のこととして置き換え、彼らとともに道義的に成長していくことが国の発展につながりますし、またそれが同時に天皇陛下への恩返しの一つだとも考えます。


若者の輝きを取り戻せ!!

本日、私の塾生ブログの更新日に当たるが、日頃から思っていることを筆者の独断と偏見を込めて書かせていただいた。従って、國體護持塾の公式見解ではないことをお断りしておきたい。

しかし、以下、述べることは國體護持塾での活動を通じて得た認識である。従って、今回、塾生ブログ記事として書かせていただくことにした。

日教組が日本の教育を悪くしたことに異論はないが、今の学生の無気力やコミュニケーション能力の欠如は一部企業が生み出したとも考えられる。これは日教組の責任とは考えられない。

教師である私は教室に入ると、学生が友達とほとんど話もせず、「しーん」と静まり返っているのを見かけることが多い。そして携帯やゲームを一人でコソコソとやっている。こんなものを若い頃からやっていると、コミュニケーション能力など育つはずもない。

今の学生と話してみると、恐ろしく話が続かないし、内容もつまらない。少し、話が続いたと思っても、突然、異常に傲慢なことを口走ったりする。若者とはこういうものであるが、異常な性格が形成されているのではないかと心配になる。おそらく自閉症気質の若者が増えているのであろう。

企業は「最近の学生はコミュニケーション能力がなくて困る」などと平気で言う。実に、企業らしい目先のことしか見えていない無責任な発言である。企業が社会的存在であるのなら、当然払うべき社会秩序への配慮はあってしかるべきである。しかし、それも実に脆弱なものでしかなく、利益一辺倒で子供にくだらないものを売りつけて、コミュニケーション能力を削いでおきながら、今更、何を言っているのであろうか。子供の人格形成の貴重な時期に、極めて有害な機器や玩具を売りつけたのは企業が利益を貪るためである。

今の学生が無気力なのは、生まれながらにして消費者にほかならず、かつ商品としてしか扱われないからである。社会に出るまでは「おもちゃ」「レジャー」を与え続けられ、「客」としてもてはやされるのと引き換えに金銭を支払う。また、社会に出れば、「商品」「マスコット」としてできるだけ安価に利用される。人とは本来社会に貢献することで貴い喜びを感じるものである。しかし、金欲に狂った財界人のために無目的な演技を「演じさせられる」のである。仕事に対する誇りなどよりもいかに「それらしく」演じるかが評価に値する。従って、本質において無気力が蔓延る。当然、それは若者の希望を失わせる。

今の若者が無気力であり、コミュニケーションが取れないのは、人間として扱われてこなかったからである。有害なモノを与えられ人格が発達しないまま大人になり、空々しい「演技」をするための社会人となる。生きる喜びなどどこにもない。当然、無気力になり異常性格が形成される。

今の日本の企業風土には「社会貢献」「人格の完成」という概念が異常なまでに希薄である。また、こういった企業のあり方に全く異議を唱えない教育関係者の腰抜けぶりにも呆れてしまう。教師もサラリーマン化していまい、生徒を「客」と見紛っているのが現状である。これを脱却するのは教育改革ではなく、教育とは何なのか、また、教育の目的とは何なのかについての明確な答えを持っていなかればならない。これを見失ったまま改革をすることで教育は漂流する。

では、教育とは何か。それは人格を育むことである。教育の目的とは何か。それは国家、社会、世界を作るためである。故に、正しい人格を有する者が国家、社会、世界に貢献することが教育の最終目的である。

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