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塾生による寄稿の転載

この度、政治結社 大行社様のご厚意により、季刊『大吼』(平成26年 新年号)に塾生の随筆を掲載して頂きました。下記に転載させて頂きます。また同時に、この場をお借りして、大行社様には深く感謝申し上げます。

大吼 平成26年新年号 

季刊『大吼』をお求めの方はこちらのHPの「お問い合はせ」へどうぞ  
 
  ヨーロッパ的思考からの転換
-日本的価値観を世界に発信するために-
  加藤 智也
                                       

ドイツの文豪ゲーテは「外国語を知らないものは自国の言葉について何も知らない」といふ格言を残してゐる。外国語を学ぶことは、自国を客観的に見る手がかりを得ることであり、また同時に自国の理解を深めるのにも役立つ。ただ、かう言つた比較文化は、趣味や教養の域に留めるのではなく、自国が世界に貢献するための知恵として有意義に活用すべきものである。近代以降、我が国は脱亜入欧といふ標語の下、ヨーロッパ諸国に学ぶ姿勢にあつた。しかし、当時の列強諸国は有色人種への差別心を顕にし、アジア、アフリカ諸国を植民地支配し続け、資源、農産物のみならず、人的な搾取までも行つた。この傍若無人の振る舞ひに「待つた」をかけたのが我が国であり、昭和18年(1943年)の大東亜会議では「人種差別の撤廃」を含む大東亜共同宣言を満州国、中華民国、フィリピン、タイ、ビルマ、インドと共に全会一致で採択してゐる。我々日本人はこの大義を深く肝に銘じた上でヨーロッパ文化を学び、それが抱へる問題を克服する手段を模索しなければならない。

そもそも、ヨーロッパ文化とはどのやうな特徴か。一般的に、その源流はヘブライ文明とヘレニズム文明にたどり着くと言はれてゐる。ヘブライ文明とはユダヤ文明のことであり、旧約聖書に源流を持つキリスト教文化に直結する。この宗教は、西暦313年のミラノ勅令において、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウス正帝が容認したことで、ヨーロッパに定着した。以降、ヨーロッパ人はキリスト教信仰に基づく独自の生活様式を形作つてきた。一方、ヘレニズム文明とは古代ギリシャの文明を指す。これは中世キリスト教社会では一旦封印され、イスラム圏で保存されてゐたものの、ルネッサンス期にイタリアで再び開花し、以降、主に芸術思想面におけるインテリ層の教養とされてきた。現在でも欧米の多くの大学ではラテン語と並び古代ギリシャ語の講座が設置されてゐる。

近年の経済危機以降、欧州連合(EU)の「お荷物」となつてしまつたギリシャではあるが、その文化的遺産はヨーロッパ人の世界観の核となつてゐる。その特徴は「個人の主体性」を明確に意識してゐる点である。『木を見る西洋人 森を見る東洋人』の著者リチャード・E・ニスベットは、ギリシャのエピダウロス円形劇場と古代オリンピックを例に挙げ、古代ギリシャ人が数日間かけてこの劇場に通つたこと、戦闘を休止してまでもオリンピックに興じたことからして、「ギリシャ人は他のどんな古代人よりも、そして実際のところほとんど現代人よりも明確に『主体性』の観念を持っていた」(1)と指摘してゐる。これは、古代ギリシャ人が個人として感動することを何よりも優先してゐたことの証左である。紀元前においてこれほどまでに自己の芸術鑑賞欲を満たさうとした民族は、おそらく他には見当たらない。また、ニスベットは古代ギリシャ人の「主体性」の観念には、「自分の人生を自分で選択したままに生きるという考えかた」(2)があり、幸福の定義に関しても、「制約から解き放たれた人生を謳歌するという意味が含まれていた」(3)と述べてゐる。「主体性」なる用語は「個人主義」と言はれるヨーロッパ文化を知る上で重要なキーワードである。これがすでに紀元前に発生してゐたことには驚かされる。また、同時にここで強調したい点は、一旦「主体性」なる意識が確立されると、必然的に対立する「他者」の概念も発生することである。この時点で、ヨーロッパ文化は「主体」と「客体」といふ二分法的思考を抱へ込むことになつた。

古代ギリシャ人は自然現象を「客体」として捉へ、それを「主体的」に分析することに長けてゐた。現代で言ふところの科学的態度がすでに存在してゐたのである。天文学、自然学、幾何学、物理学といふ自然現象や宇宙の根本原理を追求する学問の礎が確立したのも古代ギリシャであつた。古代ギリシャ人は対象そのものに着目し、その「本質(エッセンス)」を抽出することに力を注いだ。たとへば、エンペドクレスは世界の構成要素は「火」、「水」、「土」、「風」の4つの元素であるとし、また、デモクリトスはこれ以上分割できない物質として「アトム(原子)」を想定した。これは唯物論にほかならない。この思考法は近代においても連綿と生き続け、たとへば、デカルトは動物の構造を説明する際に、動物とは心臓を熱機関として動く機械だと見なした。

古代ギリシャ人の「本質」の抽出には、具体的なものを抽象化しやうとする別角度からのアプローチもある。たとへば、三角形とは何かといふ問に対して、物体としての三角形に固執するのではなく、その本質を抽象化し、理念(イデア)としての三角形を定義した。つまり、辺の数や内角の和などから定義したのである。このやうに本質を求める思考法は、「分析的」態度の芽生えだとも言へる。結果、万物を分類する「カテゴリー化」が発生した。

一方、我が国に目を向けてみたい。明治以降、日本人は積極的にヨーロッパ文化を受け入れてきた。とりわけ、戦後はその量が膨大となり、もはや、ヨーロッパ流の科学的精神を拠り所とせずに社会生活を送ることは不可能となつてゐる。もちろん、このことは日本人に恩恵をもたらした。しかし、ヨーロッパ文化を過度に受け入れたことにより、日本人が本来持つてゐた価値観が喪失してゐることも否定できない。ここに筆者は強い危機感を抱く。かつて、日本人はこれほどまでに自然を自己から隔離させ、単なる対象として認識してゐたであらうか。もつと一体ではなかつたか。また、日本人は今の時代におけるほどに自己と他者を区別してきたであらうか。これまで、自己と他者の垣根を越えて共に助け合ひ、支へ合ひ、互ひの欠点を補ひながら共に暮らしてきたのではなかつたか。日本人は一つの家族であつた。かういふ例がある。文久元年(1861年)、日本を訪れたフォーチュンといふ外国人の報告であるが、彼は町で明らかに精神に障害を持つ女性を見つけた。彼女は色々と奇行を繰り返すが、人に危害を加へる様子もないので、彼女を咎める者は誰もなかつた、といふ。江戸時代の日本社会では、「障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人びとと混じりあって生きてゆくことができた」(4)のである。そこには誰彼なく「分け隔てなく」共存できる風土があつた。ところが、残念なことに、個人主義の流入により他者との違ひを強く意識するにつれて、「分け隔てなく」といふ感覚もまた廃れたのではないだらうか。もちろん、ヨーロッパ文化に相互扶助の精神がないなどと言つてゐるのではない。ただ、日本における人間関係の緊密さが、科学的精神と個人主義により損なはれてゐることに警鐘を鳴らしたいのである。

このやうな「分け隔てなく」といふ精神は、ヨーロッパにはあまり多く見られない。やはり、ヨーロッパでは人種、民族の垣根を過剰に意識する中で争ひを繰り返してきた。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島においては、民族的にあまり違ひのないスラブ系民族が居住してゐるにも拘らず、宗教の違ひを過度に意識する中で、激しい戦闘が繰り返されてきた。武力でもつて相手を制圧し、宗教や価値観を奪ふために虐待をする「民族浄化」が今日でも行はれてゐる。

それに対して、我が国が統一するまでの道のりは、ヨーロッパとは随分と異なる。大和朝廷は各地域を治める際、その土地の住民が崇める氏族の神を全部朝廷に持つてこさせ、これを天皇がきちんとお祀りすることを条件に、統治の了解を得た。住民がこれまで拝んでゐた神を今度は天皇が祀つてくれるといふことで、朝廷は一方的に天皇の宗教を押し付けることなく統治を可能とした。現在でも宮中には賢所と皇霊殿のほかに神殿といふ社があるが、神殿には日本全国の八百万の神々が祀られてゐる。(5)この大和朝廷の統治形態は、自己と他者を明確に線引きし、相手を一方的に支配するといふヨーロッパ型の統治形態ではなく、融和的である。そこには他者と自己を区別することよりも、さらに深い部分での人間的なつながりが感じられる。つまり、祭祀のこころである。

祭祀の概念にはいくつかあるが、筆者が言ふ祭祀とは、「祖先から連綿と命を受け継ぎ、家族を守り維持するという始源的な本能に由来するもので、家族愛による祖先への崇拝と感謝、子孫への慈しみとは不可分なものであり、死によって『から』(体、幹、柄、殻)を失った祖先の『たま』(霊、魂)は、常に家族の『から』と『たま』と一体となって共存しているとの確信」(6)である。日本人は一神教の神を崇めてきたのではなく、祖先から命を受け継いできたことに深く感謝し、それを尊い事実として受けとめてきた。従つて、今ここに自分が存在するといふことには、単独者としてではなく、多数の命を受け継いできたことの自覚が伴ふ。それゆゑ、自分が「個人」であると言ひ切るには躊躇ひ、また、他者とのつながりも自覚せざるを得ない。

キリスト教が圧倒的な力をもつて支配したヨーロッパでは、祖先祭祀の伝統はほぼ壊滅状態にある。その代はり、「個人主義」が発達した。これは我が国の伝統的な価値観とは本質的に相容れない。この不適合な部分を我々日本人は認識し、ヨーロッパ文化を受け入れる際の注意点としなければならない。

筆者は、国境をなくすことや諸民族が混成する「多文化共生社会」は否定してゐる。これが社会に混乱をもたらすことは、ヨーロッパ諸国における移民問題の深刻さが証明してゐる。さうではなくて、諸民族が各々の完結した国家や自治区を持ち、その圏内で安定的に暮らせることが望ましい。ただし、その際、隣接する他民族と隔絶するのではなく、一定の人間的なつながりを確保しておくことが重要である。各々の民族の存在を尊重しながら、相互の不足部分を補ひ合ふといふやうに、日本人がかつて行つてきた人間関係に似た関係を構築する必要がある。この実現は容易ではないだらう。しかし、かう言つた絆は、観念的な人権論に基づくのではなく、人間が多数の命と関連することの自覚、つまり、祭祀のこころに気づけば、実現できるのではないだらうか。そのためにも、日本人は祭祀を世界に発信する使命を負つてゐる。最後に、大東亜共同宣言の一文を挙げておきたい。

《一つ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実をあげ、大東亜の親和を確立す。》

大東亜会議 最小


【注】
(1)リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』ダイヤモンド社 平成19年 14頁 
(2)前掲書 14頁
(3)前掲書 14頁
(4)渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー 平成21年 563頁
(5)葉室頼昭『〈神道〉のこころ』 春秋社 平成9年 125頁
(6)南出喜久治 『くにからのみち』まほらまと草子 平成21年 119頁


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「自由」ってなに??

世界人権宣言第一条にはこうあります。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」

世界人権宣言の「自由」という概念ですが、これはもちろん西洋思想が根底にあり、その本質的な意味は圧政や暴力からの解放を意味する場合の「自由」です。従って、一般的に現在の日本人が考える「自由」の意味、つまり「無限の解放」という意味とは少々異なります。また、西洋的な意味においても日本的な意味においても、「自由」は決して宣言により獲得できるものではないはずです。一人ひとりが圧政や暴力を許さないということの具体的な行動が「自由」に近づく方法だと言えるからです。「自由」とは観念で到達できるものではなく、不断の努力により近づくことができると言えるでしょう。

人は生まれながらにして「自由」ではないはずです。生まれたての赤ん坊は「自由」とは無縁ですし、障害をもって生まれてくる人は一生「不自由」な生活を余儀なくされます。人はせいぜい「自由」になる希望を胸に抱くことが許されている程度でしょう。

「自由」という言葉には肯定的なイメージがありますが、完全な「自由」は現実には存在しないものです。人が「自由」であるためには、また「自由」な社会を作るためには、現実において定められた限界を正しく認識し、変な幻想や欲望に惑わされず、誰もが納得できる権威ある規範と秩序を拠り所としなければなりません。

日本人はこのことを深く認識してきたと思います。日本人にとって権威ある規範と秩序を生み出す源泉は教育勅語にもあるように「支え合い」の精神です。日本人にとって国家とは家族です。お互いが家族として支え合うことで、圧政や暴力を食い止めることができ、また、赤ん坊を一人前の大人に育て上げ、障害者の社会参加を可能にします。このとき、人々は「自由」に近づくことができているのです。

江戸時代、自由平等思想を誇っていた西洋人は日本に来て、障害者や盲目の人がたくさん街に出てきていることに驚きました。これは日本が障害者の多い国だったからではありません。街には人を支え合う空気があったため、不遇な人でも比較的容易に街を歩くことができたのです。このことから、「支え合い」が「自由」を獲得するための現実的な方法であることがわかると思います。人は「自由」という言葉に非常に魅力を感じます。しかし、「自由」とは与えられてすでに備わっているものではありません。皆で作り出すものであることを知っておく必要があると思います。

皇道忠臣蔵と暦-2/2

12月14日の赤穂浪士討ち入りの併せて2回に分けて掲載しています。
昨日の皇道忠臣蔵と暦-1/2

四 赤穂事件の真相
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されているが、浅野内匠頭は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでいることから、遺恨説が有力とされている。しかし、この遺恨は、私憤ではなく公憤である。前に述べたような、尊皇派の赤穂浅野家と高家筆頭の吉良家との積年の確執が存在し、これがこの事件の遠因となっていることは否定できない。
山鹿素行の薫陶を受け、尊皇の志篤い浅野内匠頭長矩が、劇作で語られるような、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名断絶を覚悟してまで逆上して刃傷に及ぶという乱心説で説明できるものではない。
また、吉良上野介も、赤穂浅野家の背後に朝廷の存在を意識したことは確実である。勅使、院使も、尊皇篤志の浅野内匠頭が饗応役を務めることだけで安堵され満足されたことであろう。それが吉良上野介には手に取るように感じていた。まさに、この刃傷事件が、勅使、院使の江戸下向の際に起こったことを考え併せれば、浅野内匠頭が隠忍しえない将軍家並びに吉良上野介の皇室に対する度重なる不敬の所業があったはずである。それゆえ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙であり、浅野内匠頭は、その本意が漏れてこれにより朝廷へ禍いが及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らず、しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、その内容を申し開きせず黙って切腹した浅野内匠頭長矩は、まことにあっぱれな天朝御直の民であり、皇道の実践者であった。しかし、その死は、朝敵吉良上野介を討ち果たせなかった無念の死であり、その辞世の句は、信念を背負って黙って散った男の凄さを物語っている。駄洒落を云うつもりではないが、假名手本忠臣蔵などの演劇や映画などをこのような思いで見ていると、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ場面で、梶川与惣兵衛が「殿中でござる」と制止する言葉は、「天誅でござる」との浅野内匠頭の心の叫びに聞こえてならないのである。
いずれにせよ、この刃傷が公憤によるものであったことを裏付ける理由として、先ず第一に挙げられるのは、前掲の「浅野内匠頭家来口上」には、「高家御歴々へ対し家来ども鬱憤をはさみ候段」(原文は漢文調)とあるからである。吉良家だけでなく、高家御歴々への公憤であることをこれは示しているからである。「浅野内匠頭家来口上」は、四十七士の署名のある、いわば、義士たちの命の叫びであり、これに嘘偽りがあるはずはない。
第二に、刃傷事件から間もない3月19日、京都御所の東山天皇の下に、刃傷事件の第一報が届けられたが、この時点では吉良上野介の生死については不明であるにもかかわらず、関白・近衛基熈によれば、東山天皇は「御喜悦の旨仰せ下し了んぬ」(『基熈公記』)というご様子であり、その後、公家の東園基量は、「吉良死門に赴かず、浅野内匠頭存念を達せず、不便々々」と語っていることから、皇室の高家に対する評価がどのようなものであったかがうかがわれる。また、これらのことが皇室で長く語り続けられ、明治天皇は、明治元年(西暦1868年)11月5日、「朕深ク嘉賞ス」との御勅書を泉岳寺に命達されている。したがって、この刃傷事件やその後の討入り事件が単なる私憤によるものではありえないことを意味していることが明らかである。
ところで、大石内蔵助は、討入りの準備において、わざわざ京都山科に家屋敷を取得するのであるが、これについては、なぜ京都山科の地が選ばれたのかについて納得のいく説明に未だかつて接しない。しかし、これには深い意味がある。この家屋敷の取得については、大石内蔵助の親族である進藤源四郎の世話によることは明らかであって、この進藤源四郎とは、近衛家の諸大夫・進藤筑後守のことであり、大石内蔵助は、この進藤源四郎を通じて、関白・近衛基熈との接触していたはずである。また、山科は、朝廷の御料であり、大石内蔵助は、山科の御民となって朝廷にお仕えし、皇道を貫く決意の現われであったとみるべきである。
大石家やその他赤穂浅野家の主だった家臣もまた、尊皇の家柄であり、山鹿素行が浅野長直の招聘で禄千石の客分として赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行い、堀部弥兵衛、吉田忠三衛門などが門人となったことは有名な話である。山鹿素行は、『聖教要録』において官学朱子学を否定し、それが反幕府思想であるとされた筆禍により、寛文六年(西暦1666年)に赤穂へ配流の処分を受けた。赤穂藩は、これを天恵として素行を受入れ、大石内蔵助も8歳から16歳までの間、素行の薫陶を受けている。
そのような大石内蔵助が、山科を拠点として関白・近衛基熈とその側近に接触し、幕府や吉良家などに関する情報を収集して、江戸での情報収集人脈を密かに築いていったことは想像に難くない。現に、元禄15年(西暦1702年)12月14日、討入決行の契機となった吉良邸で茶会が行われるという情報は、吉良邸に出入りしている茶人・山田宗の弟子・中島五郎作からもたらされたが、この中島五郎作と京都伏見稲荷神社の神職・羽倉斎(後の荷田春満)とはいずれも知己であり、吉良家家老・松原多仲は羽倉斎の国学の弟子という関係であった。
このような人脈から、用意周到に情報を収集して討入りを決行したのであって、決して芝居や映画のように、江戸に入ってから泥縄式で偶然に得られた情報ではありえない。吉良邸の茶会は、討入りを成功させるために、むしろこれらの人々の協力によって催されたものと推測できる余地もある。このように、討入りの計画は、現代でも通じるような綿密な情報収集と巧妙な情報操作による情報戦争の様相を呈していたのである。
五 むすび
以上は、史料を基礎として若干の推測を加えて構成したものであるが、当たらずといえども遠からずであろう。
そうであれば、幕府が、刃傷事件により赤穂浅野家を断絶させたうえ、吉良家をお咎めなしとし、その後、赤穂浅野家の度重なるお家再興の願いも聞き届けなかったのは、単なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を実現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護という一石三鳥の深謀と受け止めることもできる。そして、幕府が赤穂旧臣討入りを真剣に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奨励したのは、赤穂旧臣の義挙が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩体制を支える士道倫理の強化をもたらすと考えたとしても不思議ではない。喧嘩両成敗を事後に実現して公正さを維持するためには、吉良家を断絶させることになるが、高家は吉良家だけではなく、皇室に余りにも憎まれ続けた吉良家はその役割を既に果たしているから無用の存在となっていた。
このように、幕府は、唐突に起こった刃傷事件と討ち入り事件を巧みに利用して、尊皇派を封じ込め、幕藩体制を強固にしたということもできる。
このように、この事件とその背景には、様々な権謀術数が渦巻いている事情があるとしても、赤穂尊皇派からみれば、「消えざるものはただ誠」の一文字で貫かれている
それゆえ、この事件を、浅野内匠頭の刃傷から大石内蔵助ら赤穂旧臣が吉良邸討入りまでの1年8ヶ月だけの「元禄赤穂事件」として限定的に捉えてはならない。そのように捉えてしまうと、討入りによって変則的な士道を実践しただけの矮小化した物語になってしまうからである。したがって、少なくとも、この事件は、万治4年の京都御所の火災から元禄15年の吉良邸討入りまでの約四十年の間、赤穂浅野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したという一連の長い物語として新たな解釈がなされるべきである。
そして、士道が皇道の雛形であり、この事件には、士道の名の下に皇道を実践したという側面があることを認識すれば、この事件を、「皇道忠臣蔵」と言っても過言ではない。「忠臣蔵」の「蔵」は、内蔵助の蔵を意味するので、もっと広く赤穂藩全体の皇道を指し示す意味の言葉を用いたいのであれば、これを「赤穂藩の尊皇運動」と呼んでも差し支えない。
「歴史とは、文字によって描かれた物語なのであり、文字によって掬い取ることができた限りにおいて歴史であり、人間の思想なのである。」(村上兵衛)とすれば、我々は、この赤穂事件を尊皇物語として捉え直してみてもよいのではないかと考えている。
誤解を恐れずに言えば、士道の名の下に皇道を実践したこの事件は、皇道の名の下に似て非なる方向へ向かった二・二六事件とは雲泥の違いがあり、我々にとって今なすべきことは、これらの事件を己の教訓として、皇道の至誠を貫くにおいて範とすべきものは何であるのか、そして、不惜身命に何をなすべきか、ということをもう一度問い直してみることなのである。

平成14年11月28日記す 南出喜久治

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

皇道忠臣蔵と暦-1/2

こんにちは 12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日とされています。
今の暦(太陽暦)ですと、この討ち入りの時間は14日から0時を過ぎているので、正確には15日未明なのでしょうが、ご主君である浅野長矩公が切腹なさった14日に主君に準じるという考え方と共に、日本の本来の暦である太陰太陽暦ですと、日の出から新しい日が始まるという考え方ですので、14日の討ち入りという考え方が日本人には合いますね。

暦のお話はこちらの数え年と暦 國體護持塾HPをご覧下さい。
数え年と暦

今日は南出喜久治先生が平成14年に書かれた皇道忠臣蔵を13日、14日とこちらにも貼らせていただきます。 原文はこちら 皇道忠臣蔵
(原文より少し暦の表記を編集しています)

一 はじめに
元禄14年(西暦1701年)3月14日、勅使、院使の江戸下向の折、その饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊下において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央に対し刃傷に及び、その結果、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家断絶となるも、吉良上野介には一切お咎めなしとの将軍徳川綱吉の裁断が下った。その後、赤穂浅野家城代家老大石内蔵助良雄ら赤穂浅野家旧臣ら(以下、「赤穂旧臣」という。)は、赤穂城を無血開城し、赤穂浅野家の再興に尽力するも叶わず、遂に、元禄15年(西暦1702年)12月14日、吉良邸に討入って吉良上野介を討ち果たし、亡君浅野内匠頭の遺恨を晴らした。これが、世に言う、「赤穂事件」と呼ばれているものである。
赤穂旧臣が吉良邸討入りの際に掲げた「浅野内匠頭家来口上」によれば、浅野内匠頭の刃傷を「喧嘩」と断定し、もののふのみち(士道)と喧嘩両成敗の在り方を満天下に問いつつも、幕府の政道及び幕藩体制そのものをあからさまに批判しなかった。しかし、幕府は、庶民の喝采と幕閣の嘆願に驚愕して、赤穂旧臣を罪人として打ち首とはせずに、かろうじて武士として処遇し切腹をさせたものの、よすがの人々を罪人として扱い、その遺族や末裔に対しても仕打ちを与えた。
ところが、この、亡君の仇討ちに似せた巧妙でしたたかな口上による義挙は、幕府はおろか、江戸のみならず全国の士農工商あらゆる階層に大きな衝撃を与え、この事件は、歌舞伎の假名手本忠臣蔵など、演劇、文芸、絵画など様々な分野にわたり、今もなおあらゆる方面において長く語りつがれている。
二 皇道と士道
では、なぜ、それほどまでにこの事件は日本人の心を捉えて離さず、我々の魂をゆさぶって心身を熱くさせるのか。従来、これについて多くの検討と解説が試みられたが、いずれも納得のいくものではなかった。本稿では、今まであまり語られていなかった視点から、この事件の実像に迫ってみたい。
それは、先ず、「皇道」と「士道」という視点である。そこで、その手掛かりを見出すために、「楠木正成」と「真田幸村」とを比較してみる。両者とも、その忠義の有り様が至純である点で同じであるが、忠義の対象を異にする。これを王覇の弁え、すなわち、権威と権力、王者と覇者、王道と覇道とに区分して捉えれば、各々の忠義の道は、王者への忠義と覇者への忠義に分類される。前者は、尊皇の道、すなわち「皇道」であり、後者は、武士の道、すなわち「士道」である。この分類であれば、赤穂旧臣は、真田幸村と同じ士道であり、決して、楠木正成の皇道と同じではない。
思うに、「皇道は公道なり。士道は私道なり。」とは至言である。したがって、士道は、国家変革を起すだけの起爆剤とはなりえず、皇道のみがその役割を果たすことは、明治維新などを見ても明らかである。それゆえ、この二つの道は全く異なる。皇道に反する士道もありうるからである。しかし、ともに「死ぬことと見つけたり」とする身の処し方と至誠において一致する。それゆえ、士道は、皇道の相似象、つまり「雛形」としての性質と役割を果たしてきたのである。
ところが、真田幸村と赤穂旧臣とは、ともに士道でありながら、その評価が著しく異なるのはどうしてなのか。さらに言うならば、真田幸村は、豊臣家の家臣であり、豊臣家の家臣として戦い、そして散っていったのに対し、赤穂旧臣は、あくまで赤穂浅野家の旧臣であって、旧臣として義挙し、旧臣として果てた。赤穂旧臣の場合は、君主なき士道であって、士道の本道とはいえない。
また、吉良上野介を打ち果たせなかったという亡君の無念を赤穂旧臣の立場で晴らしたまでであって、いわゆる仇討ちとか、意趣返しというものでもない。斬りつけられたのは吉良上野介の方だからである。浅野内匠頭が切腹となり、赤穂浅野家が取り潰され、その赤穂旧臣が流浪に身を置かざるを得なくなったのは、幕府の裁断によるものであり、吉良上野介の仕業ではない。その意味では、赤穂旧臣全員の切腹をさせるに至った荻生徂徠の見識のとおりである。
この裁断に異議を唱えるならば、大塩平八郎のように、幕府に弓を引かなければならなくなる。亡君が仕えた武家の宗家(棟梁)に弓を引くことは、幕藩体制における武士としての大義名分が成り立たない。幕府の政道を糺すための義挙というのは、士道からは導けない。士道の自己矛盾となるからである。しかし、赤穂旧臣とはいえども亡君への忠義と節操を貫き、何としてでも亡君の無念を晴らしたい。このように、二律背反の相克に陥った場合、士道は武士に何を求めるか。それは諌死である。士道は、公憤の義挙を否定し、私憤の領域である諌死を求める。つまり、赤穂城明け渡しに際して、亡君の後を追って切腹して果てることが本来の武士の姿である。このことは、後世になって、長州藩の山鹿流軍学を引き継いだ吉田松陰も鍋島藩に伝わる『葉隠(聞書)』における山本常朝もこれを指摘するところではあるが、赤穂旧臣は、それをせずに、吉良上野介に矛先を変えた。かといって、これは義挙ではあるが、幕府の政道を直接的に糺すという公憤の名目ではなく、仇討ちに似た私憤の名目を掲げている。これは、どうも、本来の士道ではない。したがって、純粋に士道の観点だけからすれば、真田幸村の方が赤穂旧臣よりも高い評価が与えられて然るべきである。
しかし、赤穂旧臣の示した忠義の方が真田幸村の忠義よりも、どういうわけか現代に至るまで根強く我々に感動を与え続けるのは、この赤穂事件には、士道だけでは説明のつかない何かがあるからである。おそらく、赤穂事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿っているためであろう。それは、赤穂旧臣は、「士道」の名の下に、隠された「皇道」に殉じた側面が存在したからに他ならない。そして、我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隠されている皇道の実践を感得して熱狂し続けるのであろう。
では、一体、その皇道とは、どのようなものであろうか。何があったというのであろうか。それを明らかにしようとするのが本稿の目的である。
三 赤穂事件の背景
吉良家は高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあったが、その実は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあった。
すなわち、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、元和元年(西暦1615年)、禁中并公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止を断行した。つまり、世俗な表現を用いるならば、幕府は、天皇を、京都御所から一歩も出さず、公家以外は誰にも会わせないという軟禁状態に置いたということである。これは、たとえば、諸大名が参勤交代の途中、京都の天皇に拝謁する慣例を認めるとなれば、それがいずれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。現に、寛政6年(西暦1794年)、光格天皇により、尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約180年の歳月を要し、文久3年(西暦1863年)に孝明天皇による攘夷祈願行幸で行幸が復活するまで、約250年の長きにわたって幕府の皇室軽視は続いたのである。
ところで、後水尾天皇(慶長16年・西暦1611年~寛永6年・西暦1629年)は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与えたことに抗議して退位された。
そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、七歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子は悉く堕胎や殺害されたと伝えられている。以後は、後水尾上皇が院政を行われて幕府と対峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、霊元天皇はいずれも後水尾上皇の皇子である。
承応3年(西暦1654年)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、国内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壊など異常気象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(万治4年・西暦1661年)などの大きな人為災害が次々と起こった。そこで、幕府(四代将軍・家綱)は、これに藉口し、これらの凶変の原因は後西天皇の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫ったのである。その手順と隠謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。
そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。
一方、赤穂浅野家は尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあった。幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。そこで、製塩事業で藩財政が豊かである赤穂浅野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)に浅野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穂浅野家は、その後莫大な資金投入を余儀なくされるが、これを尊皇実践の名誉と受け止め、赤穂城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭わず、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。
しかし、御所落成を機に、寛文3年(西暦1663年)、後西天皇は遂に退位され、霊元天皇が即位された。幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言わざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この禁裏御所御定八箇条の発案は、まさに吉良上野介によるものであった。





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祭祀の道 第45回 無尽と賭博 UPしました

國體護持塾HPに祭祀の道 第45回 無尽と賭博が掲載されました
原文はこちら 祭祀の道45回 無尽と賭博

こちらのブログには、かな使いを読み安いものに変えて掲載いたします。

                    南出喜久治
                    平成二十四年十二月一日記す

かけごとは とがめられるも ふださしは おかみをあげて そやすはなどて(賭け事は 咎められるも 札差し(証券取引)は お上(政府)を上げて煽すは何どて)

 将軍徳川綱吉の時代には、旗本、御家人、藩士などの武士の給料は、扶持米(ふちまい)支給の制度として定着しました。武士は、主君から与えられる俸禄の米(俸米、扶持米)を受けると、自家消費用の米は別にして、それ以外の扶持米でその他の生活資材の購入や入用の物資などを調達しなければなりません。物々交換によってそれを調達することは限界がありますので、当時流通していた貨幣と交換(換金)することになります。武士の君主である将軍や大名も、年貢を集めて家臣に扶持米を与え、残った米で幕府や藩の財政を切り盛りするわけですから、換金しなければならない事情は同じです。

 上方では銀貨、江戸では金貨という国内二重通貨制で、東西の換金レートや両替手続は両替商が取り仕切っているなど、武士が自分で換金したりすることは、その知識もなく、ましてや武士の面目もあってできないために、どうしてもそれを商人に委ねます。ときには、その扶持米を担保にして高利でお金を借りたり、米問屋に売りさばいてもらって仲介手数料を支払います。その商人のことを札差(ふださし)と言ひました。いまで言う、高利貸しやブローカーの仕事です。

 そして、その全国各藩から集まる米の売買取引が幕府公認を受け、大阪の堂島米会所で全国の米が集められて取引されることになります。大名の禄高や武士の扶持米などは、豊作や飢饉などの変動はあるとしても一応は予測できるものですから、ここでの売り買いによる米相場は、現物の米を一々出し入れして行う現物取引が繁雑なため、見込みと予測による信用取引となり、将来の予測を踏まえた先物取引が始まります。
 凶作などで米価が値上がりすると予想すれば先物を買い、豊作などで米価が値下がりすると予想すれば先物を売ることによって膨大な利益を得ます。それの予測が外れれば損が出ます。その見込みの当たり外れによって、得をする者と損をする者とができます。つまり、堂島では、世界に先駆けて大掛かりな先物取引が始まったのです。これは、読みの当たり外れで損得が左右される現在の商品取引や証券取引と全く同様の「賭博経済」のシステムだったのです。

 賭博は、胴元が確実に儲かるものの、賭博に参加する者の間では、ゼロ・サム(zero-sum)の関係(参加者の損得の合計がゼロになる関係)です。そして、その賭博が継続して繰り返されて開催される場合には、最も資金量の多い者が必ず勝つ(儲ける)ことになります。そして、この賭博経済によって生活物資が高騰することによって受ける不利益は、この賭博に参加していない一般の人々なのです。

 生活に必要な全ての基幹物資が「商品取引市場」という「賭博場」で取引され、胴元と賭博の勝者が吸い取って高騰した原材料等で生産者が製造した半製品や製品は、初めから価格が決められて消費者に提供されます。
 自ら販売ルートや流通・販売を確保することのできない生産者は、消費者に大量に生産物(商品)を提供する大規模小売店などの流通販売関連業者によって、その生産物(商品)の販売価格が決められてしまいます。需要と供給のバランスで価格が決まるという経済学者たちの話は大嘘なのは小学生でも知っています。スーパーマーケットなどのチラシは既に確定金額として価格が決められており、ここに買い物をしに行ってから、購買者が店員と交渉して価格が決まるものではないからです。消費者は、他のスーパーのチラシの品目と価格とを比較して、どこで何を買うかを決める選択しかできないのです。

 そして、労働もまた商品化され、「労働市場」などいう言葉に振り回されることになります。これによって労働という生活の基軸となるべきものを商品化することは、労働を軽視し冒涜することなのです。
 労働が商品化、自由化、流動化されたことによって何が起こったか。それは、これまでの家族的な終身雇用的な雇用制度が崩壊し、景気が悪い、利益がでないという理由で簡単に従業員をリストラするという事態が恒常化します。リストラという言葉を使うため、解雇、首切りという言葉の悲惨さ残酷さを誤魔化してしまう。そして、いまでも多くの失業者が次々と生まれているのです。

 このような賭博経済を容認する経済制度の歪みは、政治制度や法制度をも機能不全に陥れています。労働を商品化するということは、企業に労働を買はない自由(不雇用)、買っても返品する自由(解雇、首切り)を与えることとなって、法制度による保護も徐々に骨抜きにされ、政治や行政は何も対応できずに翻弄されてしまうのです。

 ジャスミン革命を目の当たりにしたノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツは、「1%の1%による1%のための政治」と叫びましたが、それがアメリカでは、最上層の1%に対して「我々は99%だ」「ウォール街を占拠せよ」という運動へと発展しました。これは、形骸化した政治運動の虚しさを感じて、その元凶である経済制度に向けられた初めての運動でした。
しかし、「ウォール街を占拠せよ」というのは、それ自体に運動の限界があります。占拠しても賭博経済は根絶できません。「賭博経済を根絶せよ」ではなかったからです。これは、幕藩体制の打倒ではなく幕藩体制内の改革を目指した大塩平八郎の乱の掲げた目的の限界とよく似ています。

 このように、貧富の差が大きくなること、生活格差が大きくなることこそが社会の大問題なのに、法律制度や政治制度の争点と言えば、形骸化した選挙制度における「一票の格差」の是正しか言えないのです。そんなことを是正したところで根本矛盾は解消されません。もっと重要なことは、賭博経済によって1%が99%を翻弄する格差社会が固定化されることによって生まれる富裕層の人と貧困層の人との間の「一生の格差」を是正することです。ところが、いまの司法制度を含む法律制度や政治制度では、根本矛盾があることを隠蔽するために、枝葉末節なことに終始して、根本問題である経済制度の歪みを正すことができないのです。

 そもそも、賭博は、古今東西において御法度とされてきました。それは、それにのめり込めば本人も家族もその生活を破綻させるからです。賭博の勝者も敗者も、勝ち負けによって人生の質を高め教訓を得て精神生活を向上させることはありません。賭博に関与したものは、すべて精神を退廃させた敗者であり、そのような者によって社会秩序が破壊されて行くのです。
 ところが、その賭博が、公然と認められる公営ギャンブルやパチンコ、スロットなどの賭博営業のみならず、世界全体の経済活動自体が賭博を基本とするものであり、これらが益々拡大することはまことに由々しいことなのです。

 ところで、この賭博のようなゼロ・サム(zero-sum)の関係ではないものに、「無尽」(むじん)があります。無尽講、頼母子(たのもし)、頼母子講などと呼ばれ、沖縄では模合(もあひ、むえー)と言ひます。
 文献では、無尽は鎌倉時代から始まるとされていますが、これは一言で言うと、相互扶助の仕組みです。尽きることが無い効用のある頼もしい仕組みです。誰も損をしない点に賭博と異なる最大の特徴があります。得をする程度と順序が抽選で決まるという点において賭博的要素があるだけです。
 これは、庶民の相互扶助として始まり、江戸時代では、士農工商全般において広がり、伊勢詣での目的でなされる伊勢講など大衆的な金融手段としても活用され、これが共同体の絆を深める役割を果たしていました。それが明治時代以降では、営業として大規模化し、様々な問題に対処して法制度を整え、大東亜戦争に至るまで続きます。このように、多くの無尽は日本経済を下支えしてきたのです。

 ところが、GHQは、これを賭博的でギャンブルの一つであると見て、制限ないしは禁止の方向に向かったため、現在では非営業的な庶民の無尽はほとんど見かけられなくなりました。つまり、人の心を荒ませる「賭博」だけが蔓延し、相互扶助の「無尽」が少なくなってしまったのです。

 無尽は、「金銭」の相互扶助ですが、それ以外のものもあります。いわば「労働」の相互扶助も我が国では農村に多くありました。それを「結」(ゆひ)と呼びます。合掌造りで知られている白川郷では、屋根の茅葺替えを今でも「結」で行っているのです。

 ですから、無尽を復活させることは、相互扶助の復活であり、社会の復活です。相互の信頼がなければ無尽は成立しません。一日も早く、これと似て非なる賭博と決別すべきです。前回は、「宗教を捨てて祭祀に回帰せよ」の言葉で結びましたが、今回は「賭博を捨てて無尽に回帰せよ」ということになります。

 そして、祖先から子孫に至る縦軸の祭祀と、相互扶助による横軸の無尽を結び合わせれば、「縦横無尽」に光り輝く社会を取り戻すことができるのです。その光り輝く社会とは、「まほらまと」の自立再生社会のことです。

テーマ : 環境・資源・エネルギー
ジャンル : 政治・経済

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