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おさなここち 『お風呂』-3/3

うけひのもり学園で子供向けに書いていただいている おさなここち 大人が読んでも非常に勉強になります。
本日は最終回。


そして、このような禊ぎのための沐浴がだんだんと世俗的に広く浸透して全国的に入浴の風習が生まれました。ですから、お風呂に入るというのは、もともとは祭祀のための斎戒沐浴の意味があるのです。
 しかし、お風呂に入ることを難しく考えて、緊張してお風呂に入りなさいと言っているのではありません。いつものとおり、楽しくゆったりとお風呂に入ればいいのです。
 ただ、ひとつだけ心がけてほしいことがあります。それは、お風呂に入るということは、食事をすることと同じだということです。
 食べ物は、それを食べることによって私たちの命を保っていくのですから、食事の前に「いただきます」、食事の後に「ごちそうさまでした」とご先祖様にご挨拶します。ところが、食べ物には栄養分だけでなく水分も含まれています。ですから、食事をすることは、水をいただくことでもあるのです。

 そうすると、お風呂に入るというのは、食事以上に、もっと沢山の水をいただくことなります。お風呂に入って髪や体はきれいになり、気持ちよくなりますが、髪や体の汚れを文句も言わずに水が引き受けてくれるのです。ですから、このことを感謝しないではいられません。食事の前にご挨拶するのであれば、お風呂に入る前にも、「お世話になります」とか「いただきます」と言ってご挨拶しないとおかしいでしょう。そして、お風呂が終わった後でも、食事の後と同じように、「お世話になりました」とか「ごちそうさまでした」とか何でもよいですが、必ず声を出して言ってみましょう。声を出さなくても柏手を打つだけでもよいのです。声でも柏手でもよいのですが、音を出すことが大事です。そうすれば、気持ちがもっとすっきりするはずです。

 そうして、お風呂では、ゆっくりとくつろいで暖まってください。お父さんやお母さんから、一から百まで数え終わるまでお湯に浸かるようにと言われたとしたら、その時間は約一分です。体をよく暖めるためには充分な時間ですが、そんなとき、単に数を数えるよりも、できれば、「教育勅語」を唱えてみてください。ゆっくり唱えても、これも約一分です。数を数えるよりも、教育勅語を唱えた方がより大きな達成感があるはずです。そのことによって、無言で汚れを引き受けてくれる水へ、あなたの感謝の気持ちがもっと伝わるはずです。

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おさなここち 『お風呂』-2/3

うけひのもり学園で子供向けに書いていただいている おさなここち 大人が読んでも非常に勉強になります。
今日は2回目。


おさなここち(幼心地)

       その十四 お風呂

ところが、このように自然をおそれうやまう心は、世界の人々に共通した心ですが、人の頭で理屈をこねて考え出した神様や仏様だけを拝めて、祖先や自然を無視するか軽視するような宗教を信じることによって、だんだんとその素直な心が失われてきたのです。

 皆さんは、自然全体についてもそうですが、もっと素直な心で水の有り様を見つめてください。言葉も知らず、字も読めず、神様仏様のことも知らない人であっても、水が貴い物であることは日々の生活から受ける実感で素直に理解できることです。理屈で考えた結果ではありません。だから、水は、貴い物であり聖なる物なのです。人は、最も身近にある水に、その強い力を見出して感謝(ありがたい)と畏敬(おそれうやまう)の気持ちが起こります。生き物を生み育てる力がある水であればこそ、人の罪や穢れを祓ってくれる力があるのです。

 ですから、古今東西、新たに生まれ変わるとき(再生)や、罪・穢れを洗い落とすとき(禊ぎ)には、水を使ってそれを実践してきました。ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、世界の宗教のすべては、このようなときには、いつも水を使います。

 つまり、水による儀式は、すべて宗教に共通するもので、すべての宗教を越えた貴い物と言えます。それは、水の儀式が「祭祀」だからです。祭祀というのは、祖先の命を自然の営みに支えられて今の私たちが受け継いでいることへの感謝と畏敬を形にした実践なのです。すべての宗教を束ねているのが祭祀の働きです。

 ところで、神道では、滝に打たれたり、海や川に身を浸してけがれを祓う禊ぎをしたりしますし、神社の境内にある手水舎で手洗いや口すすぎも禊ぎとして行います。これが「斎戒沐浴」(さいかいもくよく)の原型となっています。斎戒沐浴というのは、祭祀を行う前には、酒を飲むことを止め、肉とか臭いや刺激の強い食べ物を断って、清浄な場所で物忌みし(斎戒)、髪の毛や体をきれいに洗って身を清めること(沐浴)です。
 仏教でも、寺院には沐浴のための温堂とか浴堂などが造られて、仏教を信じていない人でも貧しい人や病気の人に施すことを昔はしていました。

 また、支那(中国)にもありましたが、我が国でも、湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)というものがありました。『日本書紀』にも、壬申の乱について書かれているところに、美濃の国(現在の岐阜県)には大海人皇子(皇太子)の直轄領である湯沐邑があったことが述べられています。湯沐邑というのは、字から想像できると思いますが、今で言えば温泉集落(村)です。これが皇族の直轄地となっているのは、斎戒沐浴が祭祀(神事)であることから、それを執り行う場所として重要視されたためです。

おさなここち 『お風呂』-1/3

うけひのもり学園で子供向けに書いていただいている おさなここち 大人が読んでも非常に勉強になります。
今日から3回に分けて掲載いたします。


おさなここち(幼心地)

       その十四 お風呂

南出喜久治
平成22年4月8日記す

 今日は、お風呂の話です。みなさんは、お風呂が好きですか。ごく稀に、時と場合を問わず大嫌いだという変わった人も居ますが、お風呂に入れば気持ちがよくなるので、大抵の人は好きだと思います。

 お風呂に入る習慣は、大昔からあります。古くは、沐浴と言って、頭から水や湯をかぶること(沐)や、水や湯の中に体をつけたり体を洗ったりすること(浴)です。これは、広い意味で人と水との関係ですから、人は水とともに歩んできたもので、水とは切っても切れない関係にあります。
 水がなければ、人だけではなく生き物は命を保つことができません。飲み水だけではなく食べ物には水分が含まれていますので、食べ物を通じて水を取り入れます。そして、体を洗ったり、作物に水を撒いたり、物を洗ったりなどして、生活の殆どが水と深く関わっています。

 水は人を育み、人は水に親しむというように、水と人とは親と子のような関係ですが、その反面、人は水の中で生活をしない陸上の動物であるため、海や川や湖で溺れて死ぬこともあり、本能的には水を恐ろしいものと感じています。
 また、水は、どんな容器にも馴染んで形を変え、雪や氷(個体)、水(液体)、湯気(気体)というように姿を変えます。さらに、その水は、岩に穴を開けたり砕いたりする力を持つ不思議な存在です。姿や形が変わっても本質的には変わらないものを聖なるものと言います。ですから水は聖なるものなのです。

 親しさと恐ろしさ、これが人と水との関係です。人は、山や川、林や森、海や湖などの自然の物から恵みを受けることへの感謝と親しみを抱くだけではなく、火山噴火、自然発火の山火事、地震、津波、崖崩れ、雪崩、暴風雨、雷など人間の傲慢さに対する自然の怒りにも似た天変地異を恐れます。それが人と自然との本質的な関わり合いなのです。
 欧米の思想のように、人は自然と敵対するもので、人は自然を征服するためにあるものだという傲慢な考えでは人類は不幸になります。自然を「おそれうやまう」(畏敬)という心がなければなりません。自然を恐ろしいと感じるのは、自然には人が持っていない余りにも大きな力があるからで、その力こそが生命力の源であると受け止め、その力を人に利益をもたらす方向へと変えてもらって、人にもその力を分け与えてもらうことを祈るのです。

おさなここち 『動物と機械』-2/2

 この殺処分される原因となる口蹄疫という病気は、牛、豚などの固有の病気で、人間にはうつらない病気です。そして、高病原性鳥インフルエンザについても、このウイルスを受け入れる特別のタンパク質(レセプター)を持った特殊な人でないとうつらない病気です。つまり、これらはあくまでも動物だけの病気なのです。そして、病気になった動物をしばらく休養させて治療してあげれば治るのです。狭い厩舎(家畜小屋)に閉じこめられているので、病気になりやすい環境にあり、餌を与えてくれるのは、あくまでも肉や乳や卵が少しでも早く大量に欲しいという人間側の都合のためで、家畜たちは大きなストレスの中で生まれ育って死んでいくのですから、しばらくでもそんな環境から解放してあげれば体力や免疫力が回復して病気は治るはずです。これらの病気は、これによって死んでしまうこともありますが、それほど死亡率の高い動物の病気ではないのです。

 にもかかわらず、病気になった動物を全くなんの治療もせずに問答無用で殺してしまい、しかも、場合によっては、同じ厩舎に居るすべての動物を皆殺しにしてしまうのはどうしてでしょうか。皆さんに置き換えて考えてみてください。学校で誰かがインフルエンザにかかったとき、その生徒が治療もしてもらえずに殺され、同じ学校に通っていた生徒全員も皆殺しにされるのと同じです。皆さんがそうならないのは、人間であって家畜ではないからです。ただそれだけのことで、天と地ほどの違いになるのです。なんと恐ろしいことではありませんか。

 その理由は、産業動物を「動物」とはみなさない人間社会の考え方にあります。牛、豚、ニワトリなどの家畜は、食用の肉や乳や卵を作るための「機械」と見ているからです。動物が「病気」になるのは、機械が「故障」したことなのです。故障(病気)になると、肉や乳や卵という「製品」の生産量が大幅に減ります。普通なら「故障」(病気)になったら「修理」(治療)すればよいのですが、これらの故障(病気)は、その機械(動物)だけの故障にとどまらず、同じ工場(厩舎)にある他の機械(動物)にも同じ「故障」を連鎖的に引き起こし、それ以外の場所にある工場にも広がるために、工場全体、産業全体の生産力が低下します。だから、工場を閉鎖し、機械を廃棄処分(殺処分)にするのです。ところが、この故障(病気)は、修理方法(治療方法)もなく、確実に機械廃棄(死亡)しなければならないような、修理が不可能な故障(不治の病)ではないのです。なんと、治療するのが邪魔くさいから殺処分するのです。どうして邪魔くさいから殺すのかというと、いままで口蹄疫などになった動物を安易に殺すことしかしてこなかったし、真面目にこれまで治療方法を研究開発することをしてこなかったからです。

 皆さんは、牛、豚、ニワトリなどの家畜がいる動物園に行ったことがありますか。おそらく、牛、豚、ニワトリなどのいる動物園はないはずです。それは、これらの動物を動物園で飼育展示する動物(展示動物)とした場合、もし、口蹄疫などになったときは、これらが家畜伝染病予防法での「家畜」に該当するため、殺処分しなければならなくなります。すると、その手続きや作業や大変になり、動物園が大きな損害を被ることになる上に、動物園を訪れる親子たちにそのことを説明したりすると、悲しい思いをさせたり、どうして殺すのだ!という抗議を受けることが怖いからではないかと思います。
 このことからしても、牛、豚、ニワトリなどの家畜は動物としては扱われないのです。家畜たちは、口蹄疫などの病気になれば治療もしてくれずに、ただ殺されるだけです。皆さんは、この現実に目を背けてはなりません。

 食事の前に「いただきます」という挨拶の言葉には、御先祖様から受け継いだ食べ物の恵みに感謝しつつ御先祖様と一緒に食事をし、海の幸、山の幸の「命」をいただいて、それを私たちの「命」として繋ぐことになることを感謝する意味があります。ですから、動物の命を奪うのは、私たちが命を保つために必要最小限度のものであり、あるいは人間社会を危険から守るためにやむを得ない場合でなければならないことは当然のことです。
 日本や世界には動物愛護団体や宗教団体などが数多くありますが、イルカやクジラなどを食用にするために捕獲したりすることですら反対する団体の人達でさえ、殺処分という大きな矛盾をほったらかしにして黙っているのは、これらの人々がこのような矛盾を知っていながら、あえて世界の人々を欺いて自分たちの要求だけを通そうとする恐ろしいまでの偽善者だからです。

 一方では、先ほどの水鳥が元気になったことを素直に喜ぶ人や、犬や猫などを家族のようにして育て、病気になれば真夜中でも獣医さんに見てもらい、死んだときは涙を流してお墓までつくる人がいるのに、他方では、そのような人たちでさえ、口蹄疫などで大量に動物が殺処分されたニュースを見ても涙を流すどころか、早く殺処分してくれてよかったなどと喜んだり、殺処分が遅れていることに抗議までする人が居ることは、どこか世界全体の社会と人々の心が狂っているためではないでしょうか。
 皆さんには、このような矛盾に素朴な疑問を持ち続けながら、ひちすら自分の本能を鍛えて強くし、みんなで知恵を出し合って、よりよい将来の社会を作って行ってほしいものです。

おさなここち 『動物と機械』-1/2


実際にあった話ですが、心ない誰かのいたずらで、首に矢が刺さった野生の水鳥が見つかったことから、多くの人が可哀想だと大騒ぎし、役人まで出てきて、その水鳥を保護するために捕まえて、首から矢を引き抜く手術をし、元気になってから飛び立つ姿を大勢の人々が見守りながら、よかった、よかった、と拍手しながら涙を流して見送る光景をテレビで見たことがあります。少しおおげさな騒ぎ方ではありましたが、それでも水鳥を慈しむ人々の素朴な心が現れている、ほほえましい光景でした。

 私たちには、戦争や地震、津波、火事などの災害に見舞われた場合は勿論のこと、その原因が何であるかを問わず、病気や怪我をしたり貧しくて苦労している人や動物に接したときに「かわいそう」と感じる心があります。また、赤ちゃんや小さな動物などを見て「かわいい」と感じる心もあります。実は、これらの心は同じ心の働きです。かわいそうと感じたら守ってあげようと思うでしょう。また、かわいいと感じたときでも守ってあげようと思うでしょう。そして、それを実行するでしょう。だから同じ心の働きなのです。これは人にとって自然な心の働きです。

 どうして、こんな心の働きがあるかと言えば、それは、人には人としての本能が備わっているからです。もし、自分の命と体だけを守ることが一番大切なことで、それ以外は大切ではないとする個人中心の考えが正しいのであれば、命がけで家族を助けたりすることは馬鹿げたことであり、困っている他人は勿論、首に矢の刺さった水鳥を見て、かわいそうと感じる必要もないし、自分には何の関係もない人や水鳥を助けようと行動することもありえないはずです。そんなことをしたって自分が得することは一つもないし、時間もお金も損するし、ときには一番大切な命すら落とすことになるからです。それでも、私たちが、家族や困っている人を助けたいと思ったり、水鳥がかわいそうと感じることができるのは、自然な心の働きであって正しいことなのです。本能が間違っているとしたら、人類はとうの昔に滅んでいたはずです。本能が正しいから人類は生きながらえてきたのですから、本能を否定する個人主義の考えは間違いであり「悪」であるということです。

 人には、その人個人を越える価値があるから、それを気付かせるための心の働きが備わっています。自分自身も大切ですが、それ以上に家族が大切、そしてそれ以上に、家族同士が支え合う地域の社会(ふるさと)、そして、これをすべて包み込んでいる国家が大切、さらには、世界、そしてすべての命を育む地球が大切、という「大切さの階段」を上っていくように本能が作られているからです。この階段の踏み板は、順序正しくなければ階段になりません。途中の踏み板が一つでもなくなれば、階段としては使い物になりません。「かわいそう」とか「かわいい」と感じる心は、自分から始まって、それよりももっと大切なものがあるという、本能の序列を示す「大切さの階段」を上る力を養うためのものです。これが本能の仕組みであり、水鳥を慈しむのは、「大切さの階段」を一つ一つ上りつめた最上段にある、地球上の生きとし生けるものが共生するために必要な本能に由来するのです。

 ところで、動物を人間の社会との関係で分類すると、「野生動物」と「飼育動物」とに分けられます。人の世話にならずに自分たちの力で餌を取って生きている野生動物と、人から餌を与えられて飼育されている飼育動物との区別です。さらに、飼育動物は、「家庭動物」、「展示動物」、「実験動物」、「産業動物」に区分されます。「家庭動物」は、犬とか猫などのように家で飼う愛玩動物(ペット)。「展示動物」は、動物園や水族館などで飼育する見せ物用の動物。「実験動物」は、医療や科学実験での生体実験に使うモルモットなどの動物。そして、「産業動物」は、食用の肉や乳、卵などのために産業的に飼育された牛、馬、豚、ニワトリなどの動物です。

 先ほどの水鳥は野生動物ですが、飼育動物の中でも、飼い主の身勝手な理由で無責任にも捨てられたり、保健所に持ち込まれたりする家庭動物などを保護することなどについては、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」と「動物の愛護及び管理に関する法律」という法律があって、それらによって動物は守られているのです。
 しかし、展示動物、実験動物、そして産業動物になると、その保護がとても薄くなります。特に、産業動物については、水鳥の命を慈しむ心を、まるでブルトーザーでいっぺんに壊してしまうような話が現実にあるのです。

 それは、最近、特に頻繁に行われている家畜動物の「殺処分」です。これは、「家畜伝染病予防法」とこれに関係する法令と国際的な合意によってなされているもので、牛とか豚などが「口蹄疫」(こうていえき)にかかったり、ニワトリなどが「高病原性鳥インフルエンザ」にかかったときには、これにかかった動物(患畜)はもちろん、場合によってはこれにかかった疑いのある動物(疑似患畜)も含めて何十万頭も何十万羽もの動物を殺してしまうことです。法律的には、口蹄疫にかかった動物を殺すことを「と殺」(屠殺)と言って、食肉用に殺すときと同じ言葉を使います。それ以外の動物が病気にかかったことを理由に殺すことを殺処分と言うのですが、ここでは一律に「殺処分」という言葉を使うことにします。
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